二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

善紹寺

 奥戸・善紹寺は南葛「いろは大師」のうち、一番、四十八番、番外元大師の札所です。



【札所番号】
いろは大師:第一番(板野郡大字板東村・霊山寺の写)
いろは大師:第四十八番(温泉郡久米村大字高井・西林寺の写)
いろは大師:番外:元大師(いろは大師)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。霊山寺の所在地は、東村→坂東町大字坂東→大麻町大字坂東と変遷しており、何町なのかはっきりしなかったため字のみ書いているものと思われます。

【札所名】善紹寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸6-6

【御詠歌(いろは大師1)】本尊釈迦如来
りやうせんの しやかのみまへに めぐりきて よろづのつみも きへうせにけり

【御詠歌(いろは大師48)】本尊十一面観音
みだぶつの せかいをたづね ゆきたくば にしのはやしの てらへまいれよ

【御詠歌(いろは大師・元大師)】
のぼりはて 心の霧も はれぬべし 高野の山の 峰の嵐しに

なんかつに いろは大師が 自現して よろづの人を救ふ嬉しさ

【いろは大師:宇田川先達の御詠歌】
うだがわがいろは大師のいさほしわ 柱らのそこの石となりぬる

【御茶功徳御詠歌(古典)】
ありがたや お茶のくどくに みをやすめ このよのくどく のちのよのため

大日如来の御詠歌(弘法大師・作)】
阿字のこが 阿字のふるさと たちいでて またたちかへる 阿字のふるさと

【いろは大師、次の札所】
七番宝蔵院へ二丁半



 ネット情報は検索してヒットしたところから読むのが普通ですし、そこだけ読んで離脱するのも普通のことです。そのためあちこちに同じようなことを書いていますが、ここにあらためて当ブログの主旨を書いておきたいと思います。

 当ブログは「南葛八十八ヶ所」と呼ばれている八十八ヶ所霊場巡りに注目し、実際に札所をまわっています。この「南葛八十八ヶ所」ですが、実は同じ名前で二系統あります。

 ひとつは明治43年に東京弘山講が開創したものです。名称は「新四国南葛八十八ヶ所」「南葛新四国八十八ヶ所」など揺れがあり、どちらが正式ということもないようです。この霊場めぐりは大師像や大師堂の造立を行わなかったようで、札所とされているお寺には札所だった頃の名残は残っていない事が多いです。いくつかのお寺で札所番号と御詠歌、奉納した年月日(明治43〜45年くらいの)が刻まれた木製の扁額を見つけました。順路は旧南葛飾郡のうち主に江戸川区を通り、葛飾区、墨田区浦安市にも及んでいます。当ブログではこちらを「南回り」「南葛南回り」と呼んでいます。

 もうひとつは大正12〜14年にかけて、宇田川万太郎氏(恵心和尚)が開創した新四国南葛八十八ヶ所です。宇田川氏はもともと農夫だったそうですが、庭木の手入れ中に転落して枝で目をつき、何ヶ月も腫れ上がって膿を排出するような大けがをしました。しかし弘法大師におすがりすることであとかたもなく快癒し、その奇跡に感じて自宅に大師堂を建立し「いろは大師」と名付けたのが起源だそうです。その後旧南葛飾郡の51ヶ村に弘法大師霊場を開こうと発願し、札所は大正12年から段階的に開かれ、14年に八十八ヶ所の霊場巡りが完成しました。その後万太郎氏は出家して恵心和尚になり、大心講を作りました。後に講は息子の宇田川善紹氏にひきつがれ、昭和61年ごろまでは巡行大師を行っていたということです。順路は旧南葛飾郡のうち主に葛飾区を通り、江戸川区墨田区江東区、足立区の柳原(ここは昔葛飾区だった)に及んでいます。当ブログでは恵心和尚が最初に造立した大師像にちなんで「いろは大師」と呼んでいます(時々「北回り」と呼んでいるかもしれません)。

 これらの由来は大心講発行の昭和54年版『御詠歌集』、下町タイムス社平成元年発行の『江戸・東京札所事典』に書かれています。資料についてはいろは大師の由来などもご覧ください。

 さて、善紹寺ですが、これは南葛いろは大師の第一番札所であり、第四十八番札所であり、開創者の恵心和尚が最初に造立したいろは大師もここにあります。

善紹寺門前の大師堂
南葛八十八ヶ所第一番と書かれた表札
お堂の前にある足形の踏み石
南葛八十八ヶ所いろは大師第一番大師像
一番大師像の台座、向かって右面

 南葛いろは大師の第一番は、善紹寺の門前にあります。お堂は通りにむかって建てられているので、いつでも、誰でも、お参りすることができます。堂内には第一番の台座に安置された大師像があります。また、木製の大師像が二体、仏像と並んで厨子におさめられたものがありました。

 お堂の奥の壁には小さな扉があり、中は拝見していませんが、おそらく四国一番札所のご本尊様である釈迦如来の像を納めたものだと思われます。大心講の『御詠歌集』によれば、霊場開創者の恵心和尚は四国八十八ヶ所を巡った際に、八十八番大窪寺の僧正よりご本尊様を刻むために老霊木をたまわり、百余体の霊像を作ったとされています。各地の札所に木製の小さな仏像が納められているのを見ました。誰かに確認したわけではありませんが、おそらく、この霊木から刻まれたものではないかと思います(違ったらごめんなさい)。

 お堂の前に足の形をした敷き石があります。恵心和尚は四国から霊場の砂を持ち帰り、各札所にまいたということなので、おそらくこの踏み石の上に立って大師堂を礼拝することで、四国をめぐったのと同じ功徳があるという趣向なのだと思います。

 台座の脇面をスマホでどうにか写してみたのですが、向かって右面には納人のみなさんのお名前があるだけで造立年はありませんでした。左面は堂内が暗いため文字が読めるほどには写らないのですが、何か刻まれているようではあります。


 第四十八番と元大師の開山堂は善紹寺境内にあります。

善紹寺境内の大師堂。右の小さい方が四十八番、大きい方が開山堂。
南葛八十八ヶ所いろは大師第四十八番大師像
四十八番のお堂にかかげられた扁額。文字は消えてしまっている。

 第四十八番のお堂には番号の台座に安置された大師像と、その脇にはなぜか不動明王と思われる仏様が厨子に納められて置かれています。お堂の奥の壁には小さな扉があり、おそらく四国四十八番寺のご本尊様である十一面観音を納めたものだと思われます(中は拝見していないので想像です)。

 お堂の軒下には木製の扁額がかかげられていますが文字は消えてしまっています。おそらくは「第四十八番西林寺の写 みだぶつの せかいをたづね…(御詠歌)」と書かれていたものだと思います。いろは大師の扁額はだいたい消えてしまっているのが残念です。

善紹寺開山堂(元大師が納められている)
開山堂内(ガラス越しに撮影させていただきました)

 四十八番のお堂のとなりには開山堂があります。こちらには恵心和尚が最初に造立したいろは大師が納められています。いろは大師像は厨子におさめられて見る事はできないのですが、台座に「いろは大師」と刻まれているのが見えます。

 またこちらには番号のない石の大師像が二体納められています。これはいずれかの廃止された札所から引き取ったものなのか、それとも最初からここに納められていたのか、お寺の方に聞いてみないとわかりません。
 
 善紹寺については昭和の中ごろに発行された『葛飾区史』に「真言宗豊山派に属し、大心山と号する。大正年間の創立で本尊に弘法大師像を安置する。寺宝として唐白担立像及び室町末期と推定される五具足等がある。当寺は新しく設定のため堂宇の建設が計画予定されている」とだけあります。

 また近年葛飾区によって編纂されたWEB板の『葛飾区史』によれば「南葛八十八箇所は、大正12(1923)年、現在の奥戸、善紹寺の住職により始められた「いろは大師」をもとに大正14(1925)年、八十八ヶ所の霊場が整備された」とあります。

 それとこれは完全にネット情報ですが、恵心和尚の息子さんである宇田川善紹氏が自宅を寺としたもの、と書いている方もみつけました。いずれにせよ、恵心和尚ご自身か、息子さんによっ大正年間に開かれたお寺ということです。

 いろは大師はこのお寺を一番として、同じ奥戸の明源寺の八十八番でひとめぐりします。

いろは大師の札所を地図にまとめたもの(スクリーンショット

 地図はわたしが札所をまわるためにメモとして作ったものです。詳しくはこちらからどうぞ。
 
 
 ところで、恵心和尚は明治43年開創の南葛八十八ヶ所(南回り)を知らなかったのでしょうか? それとも知っていて、あえて同じ名前で霊場を作ったのでしょうか?

 わたしは、知ってたんじゃないかな、と思うんです。わたしがちょっとお寺を回っただけでも、南回りの札所に納められた扁額をいくつかみつけました。令和の現在ですら残っているので、大正時代にならもっと多くのお寺にあったかもしれないです。

 それにお寺の名前。南回りの一番は江戸川区小松川の「善照寺」だそうで…一文字違いで同じ読みですよね?!

 南葛というのは南葛飾郡の略で、今の葛飾区全域、江戸川区の大部分、墨田区の一部、江東区の一部、足立区の柳原が含まれます。にもかかわらず、南回りの順路はほとんど南葛飾郡の南部(今の江戸川区)ばっかりを通っていて、北部(今の葛飾区)をちょっぴりしか通らないんです。そこにちょっと、カチンと来るものがあって、あえて同じ名前で北部を主に通る霊場巡りを作ったんじゃないかと想像しています。もちろんこれは、あくまで想像です(笑)

 わたしは葛飾区在住で、区内のお寺で恵心和尚の南葛八十八ヶ所のお堂を見ており、南葛といったらそれしかないと思ってました。

 ところがある日、江戸川区内をぶらぶら歩いていたら、思わぬところに「南葛八十八ヶ所」と刻まれた扁額を見つけて、え、こんなところにまで札所があるの? と驚き、ネットで南葛の札所の一覧を見ると、そんなお寺は入ってない。そりゃあそうです。わたしが見たのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所のリストだったのです。

 それから地元の図書館へ行き、前に眺めたことがある下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』を見たら、南葛八十八ヶ所が二系統あるのに気づきました。

 ああ、これは、両方回ってみなきゃ。ネットで主に言われてるのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所だけど、そうでない系統の南葛の札所を自認しているお寺も実際にあるわけだから、ごっちゃにしていてはいけないなと思い、歩き始めたのがこのブログの始まりです。

 家から近い葛飾区内からはじめたので、2020年末現在、まだ南回りの札所は数えるほどしかまわれていません。来年もぼちぼち続けていこうと思います。

2022年追記

 コメント欄やメールでいただいた情報を追記します。

この三件は「善紹寺に遷座されている」とのことなので、善紹寺開山堂内にある2体の像がこれらのうちのどれかなのかもしれませんが、いずれも、どのような調査でそうおっしゃってるのかはわかりませんし、わたし(当ブログ筆者)は善紹寺さんに確認をとるなどの作業はしていません。#22番は確認できました。10月の追記を読み進めてください。↓

2022年10月追記

 またお参りに行くチャンスがありましたので確認してきました。結論からいうと番号の台座が 3基みつかったのですが、あったのは第22番吹上第68番森田屋敷、それから番号が読めなかったものが1基あります。

奥戸・善紹寺の観音堂脇に積まれた 3基の台座

 写真に写っているお堂は観音堂だったと思います(大師堂でないことは確かです)。

積み上げられた台座、上から「第二十二番」「第六十八番」「第……」

 台座の番号は、22番、68番、一番下は土に埋もれてしまい、草も生えているので読めませんでした。少し掘り出せば確認できるかもしれませんが、さすがにお寺さんに許可をもらわないとまずいかなと思ってやめました。大師像そのものは、おそらく開山堂内にある台座のない像のどれかだと思います。

 というわけで、第22番吹上、第68番森田屋敷については、善紹寺に遷座されたことが確認できています。

2023年12月13日追記

 上記の土に埋もれた台座について、かつしかあつめというサイトを作ってらっしゃる方から情報をいただきました。現在は土が取り除かれて番号が見える状態になっているそうで、一番下に隠れているのは39番だそうです。これはかつて 原神社内 にあったとされるものと一致します。近いうちに写真を撮り直しに行こうと思います。

2022年11月13日追記

 以前通り掛かりに撮影した写真を見ていたら、まだブログに貼っていないものをみつけたので追記しておきます。

寺門入ってすぐ左手にある石碑

相馬霊場四十八番法写
यु 弘法大師
 大正九歳三月成
   ■■■書

(下段に寄進者か世話人の方々の名前が刻まれている)

 ■は手持ちの写真では不明瞭で読めなかった部分です。
 この石碑は、寺門を入ってすぐ左手にあるものです。くずし字で「相馬霊場四十八番法写」とあるので、いろは大師とは関係ないのかな、とも思っていたのですが、『御詠歌集』にある開創縁起によれば、恵心和尚が怪我の快癒に感激して

報謝の涙止め難く遂に北相馬新四国霊場を巡拝し一大法悦を感じ自宅の構内に一小堂を建立し、いろは大師と称し、大正八年十一月二十一日入仏供養を修業せり、今の元大師是れなり

とあるので、開山堂におさめられている元大師にまつわる石碑のようですね。相馬霊場(あるいは北相馬霊場)は、取手市我孫子市柏市にまたがる八十八ヶ所霊場のことだと思われます。なぜ四十八番の写しなのかはわかりません。相馬の四十八番は小文間村安養寺ですが、寺そのものは廃寺で、大師堂のみ残っているそうです。

宝蔵院

 宝蔵院は南葛「いろは大師」の七番であり、南葛「南回り」の六十番です。「四箇領」の二十四番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第七番(板野郡御所村大字高尾・十楽寺の写)

南回り:第六十番

四箇領:第二十四番

【札所名】宝蔵院(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸8-5-19

【御詠歌(いろは大師7)】本尊阿弥陀如来
にんげんの 八くをはやく はなれなば いたらんかたは くぼんぢうらく

【御詠歌(南回り60)】

【いろは大師、次の札所】
九番元熊野社へ一丁半

【南回り、次の札所】
六十一番、細田・専念寺



 

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宝蔵院の大師堂
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南葛いろは大師第七番大師像

 宝蔵院は南葛八十八ヶ所いろは大師の七番であり、同名の霊場めぐりである南回りの六十番であり、四箇領の二十四番でもあります。境内の大師堂には像が二体ありますが、中央に安置されているのがいろは大師のものです。閼伽棚が前にあって台座が写真には写っていませんが、上から見るとちゃんと「第七番」と刻まれていました。

 向かって左奥の像はどなたの像なのかちょっとわかりません。弘法大師の座像ならば、右手に五鈷杵(ごこしょ)という法具を持って、左手で数珠を握っている事が多いです。絶対じゃないかもしれないですけど。

 南回りの札所だった名残はありませんでしたが、四箇領は門前に標石がありました。

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四箇領の標石(二基)
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右側の標石の脇面

 右の背の高い方も正面は「新四国八十八ヶ所」としか書かれていないので、これだけだと何の標石なのかわからないんですが、脇面を見ると「西新井組二十四番土州東寺写/宝蔵院」の文字が見えます。西新井組というのは現在四箇領と呼ばれている霊場巡りのことです。四箇領は別名で西新井組中川通と呼ばれてるそうで、古い標石には「西新井組」と書かれてることがけっこうあるみたいですね(南葛関連で見て回るまでわたしも知らなかったんですけど)。

 白くて背が低いほうは、わたしは八十八石と呼んでます。八十八とだけ刻まれているものは、たぶん昔は順路上の路辺にあったものだと思います。都内だと道路を広げる時などに撤去されて、こうしてお寺の門前に置かれている事が多いですが、三郷市内にはまだ路辺にいくつも残っていたりします。特別に四箇領とは書かれていないのですが、だいたい四箇領の札所へ向かう道の途中にあります。八十八石については、わたしの別のブログの記事をどうぞ。
www.chinjuh.mydns.jp
 
 
 
 宝蔵院は境内が広くて、薬師堂のまわりなど田舎道みたいになっていて楽しかったです。

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やくしみち入り口
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林の中に摩羅様が生えてた…!
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薬師堂の前で「こっちだよ」と指さしてる小僧さんがかわいい。

元熊野社

 南葛「いろは大師」の九番札所は奥戸八丁目の路辺にあります。今では大師堂があるだけなのですが、大心講の『御詠歌集』には元熊野の社とあるので、かつては熊野神社の境内だったのではないかと思われます。



【札所番号】
いろは大師:第九番(阿波郡土成村大字土成・法輪寺の写)

【札所名】元熊野社

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸8-3-13

【御詠歌(いろは大師9)】本尊釈迦如来
だいじやうの ひほうもとがも ひるがへし てんほうりんの ゑんとこそきけ

【いろは大師、次の札所】
十五番専念寺へ二丁



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元熊野社大師堂
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堂内。御詠歌の扁額がお供え台みたいにされている(笑)

 元熊野社は路辺にあります。札所の名前からして元は熊野神社があったのかもしれませんが、現在はただ大師堂だけが建っています。以前、バスの窓からお堂をみつけて「むむ、あれは大師堂っぽいぞ!」と妖怪アンテナならぬ札所アンテナがピピッと立ったので、わざわざ次の停留所で降りて確認に戻ったのを思い出します。

 堂内には第九番の台座に安置された大師像が一体あります。文字の消えた扁額(木の板)が赤いカゴの上にのせられてお供え物の台みたいにされていました。この板には「第何番 四国ナントカ寺写」と、御詠歌が書かれていたはずなんです。こういった扁額はいろんな霊場巡りで札所に奉納されています。

 南回りのものなどは、文字を彫刻してから色をのせるので消えないんですが、いろは大師の扁額はただ文字をなんらかのインク(墨かもしれないし、他の何かかもしれない)で書いたらしく、ことごとく文字が消えてしまっているのが残念です。

 ところで、こちらでもお大師様の写真を写したはずなんですが、どうしたことかみつかりません。間違えて消したのか、関係ないフォルダにいれてしまったのかもしれません。来年時間を作ってまた参拝したいと思います。イケメンに撮れるようにがんばりたいと思います。(後日写しに行ってきました)

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南葛八十八ヶ所いろは大師、第九番大師像

○ ○ ○

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大師堂なのに地蔵堂って書かれてるポケスト

 元熊野社の大師堂はポケストにもなっているんですが、名前が奥八地蔵堂になっています。しかしここにはお地蔵様はなかったですよ。それなのに地元では地蔵堂だと言われているのかなあ。ちょっと考えにくいですけど。

 ポケモンGOはあくまでゲームなので、いっそネタだとわかるくらいデタラメが書いてあるんならまだ納得がいくんですが、宗教施設を間違った名称で登録しちゃうのって、なんかビミョーだと思うのですけど^-^;;;

 地蔵でないものに地蔵とつけてあったり、タイプミスのまま登録されてたりするポケストがけっこうあるので、トレーナーレベルが40を超えた記念にいくつか修正案を出してみたことはあるんですが、だいたい無視されてしまいます。

 「地元の研究家です」とか言って運営に直接メール書くと直してくれる可能性もあるんですが(実際自宅の近所のものは一件お願いして直してもらったことがあります)、家から遠いところのものだと、地元でどう扱われているかわからないので、そこまでしていいものなのかと躊躇してしまいます。

専念寺

 細田・専念寺は南葛「いろは大師」の十五番で、同「南回り」の六十一番です。現存する大師像はいろは大師のものです。南回り関連のものは何も残っていないようです。



【札所番号】
いろは大師:第十五番(名東郡国分村大字矢野・国分寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。寺は国分寺で村の名前は国府村のようです。

南回り:第六十一番

【札所名】専念寺(浄土宗)

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸8-10-19

【御詠歌(いろは大師15)】本尊薬師如来
うすくこく わけわけいろを そめぬれば るてんしやうじの あきのもみじば

【いろは大師、次の札所】
四番観音堂へ七丁八間

【南回り、次の札所】
第六十二番、奥戸・妙厳寺



 

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専念寺の大師堂
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南葛いろは大師第十五番大師像

 専念寺は浄土宗のお寺です。弘法大師真言宗の日本における開祖ですが、南葛八十八ヶ所の札所は、いろは大師も、南回りも、すべてが真言宗というわけではありません。実は四国八十八ヶ所も、すべてのお寺が真言宗ではないそうです。

 こちらはいろは大師の十五番であり、南回りの六十一番です。堂内の大師像はいろは大師のものです。写真では光りの関係で台座が白く写ってますが、たしか番号が刻まれていたように思います。チャンスがあったらもう一度お参りして撮り直そうと思います。

 南回りは大師像の造立を行わないスタイルだったようなので、何も残っていないのが基本です。運がいいと札所番号や御詠歌を刻んだ扁額が残っている場合があります。

写真を撮り直してきました

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いろは大師第十五番大師像。台座にしっかり第十五番と刻まれている。
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台座の向かって右脇

 角度が難しくてうまく写らないのですが「大正十●年六月十日」と刻まれており、世話人か奉納者の方のお名前がちらっと見えます。

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台座の向かって左脇

 こちらもこれ以上手を入れられないのでうまく写らないのですが、当寺の世話人の方々のお名前が刻まれています。

観音堂(奥戸二丁目墓地内)

 大心講の『御詠歌集』では、南葛「いろは大師」の第四番は旧町名で本奥戸町の観音堂とされています。しかし、現在はそれらしいお堂がなく、いくつかの本では奥戸二丁目の墓地内としています。



【札所番号】
いろは大師:第四番(板野郡松坂村大字黒谷・大日寺の写)

【札所名】観音堂

【所在地】

旧地名 葛飾区本奥戸
現在の地名 葛飾奥戸二丁目

# 上記所在地は大心講『御詠歌集』による。
# 下町タイムス社『江戸・東京札所事典』には奥戸2-32-9とある。
# 葛飾区立中央図書館蔵『新四国八十八ケ所霊場地絵地図』には奥戸2-32-19とある。(こっちのほうが正確な位置を示す)

【御詠歌(いろは大師4)】本尊大日如来
ながむれば つきしろたへの よはなれや たゞくろだにゝ すみぞめのそで

【いろは大師、次の札所】
十二番地蔵堂(森市入定塚)へ四丁



【追記】いろは大師第4番は奥戸2-32-19の墓地内でどうやら正解のようです。観音堂という名前なのにお堂がないのは戦災でやけたからとのこと。詳しい情報は本文の終わりに追記しました。追記ここまで。2022年7月。
 
 南葛八十八ヶ所いろは大師の四番は旧地名で葛飾区本奥戸町、現在の地名で奥戸二丁目のどこかだと大心講の『御詠歌集』に書いてあります。本奥戸町というのは、たぶん奥戸本町のことだと思います。今はもうない地名なのですが、だいたい奥戸一丁目〜二丁目と重なるようです。

 前の札所である専念寺から七丁八間(800m弱)、次の札所である森市入定塚の地蔵堂まで四丁(450m弱)だとすると、奥戸二丁目で、しかも奥戸街道からそう離れていない場所のような気がします。

 その条件を満たす場所として、奥戸2-32-9に墓地がありまして、ネット情報でも、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』でも、ここを四番としています。

奥戸二丁目の墓地
墓地内の地蔵堂(手前の屋根)と大師堂
堂内には小さな木製の大師像が厨子に納められた状態で安置されている

 たしかに大師像はあったんですが、こちらのは木製の小さなお大師様で、恵心和尚と大心講が作った石の大師像とは違うものでした。そもそも札所は「観音堂」のはずなんですが、ここには観音堂らしいものは現在見当たりません。

 しかしここ以外となると、もう手がかりがありません。地元に昔からいる方に聞いてみないと。もしこのブログを見に来られる方で、奥戸に昔から住んでいる方がいらっしゃいましたら、このあたりに「観音堂」と呼ばれる場所はなかったでしょうか。そしてそこで、第四番と刻まれた台座に安置された大師像を見ませんでしたか?

 何かご記憶がございましたら、ぜひコメント欄に思い出をお寄せください。下のほうへスクロールすると「コメントを書く」というボタンがあると思います。

どなたかが奉納されたどんぐり。小さな文字で経文が刻まれている。

 これは大師堂内に奉納されたドングリです。小さな文字で経文とともに「南葛八十八ヶ所第四番墓地内」と刻まれています。最初これを見て、地元の方がここを四番だとおっしゃるなら、きっと四番なんだなと納得しかけたのですが、同じドングリがめぼしい札所のあちこちに奉納されているのに気づきました。
 そうなると関係者というわけでもなくて、わたしと同じようにネットや本を見て巡礼している方なんだろうとも思います。
 でも、行く先々でドングリに刻まれた小さな文字を見て、その根気と信仰心に頭が下がる思いです。わたしも頑張って歩こうと思いました。

追記 2022年7月25日

 コメント欄でいただいた情報で、わたしはまだ典拠をみつけていないのですが追記しておきます。

  • いろは大師の四番観音堂西蔵観音堂だった。
  • 奥戸西蔵は廃寺となり奥戸妙厳寺に合寺[いつ?]
  • 墓地はその後ものこり、観音堂そのものは火事で消失。[いつ?]
  • いろは大師の石像は現存せず、墓地内に木造の大師像がある。

…ということで、場所は「奥戸二丁目墓地内」で合ってる、ということでいい、のかな?

追記 2022年7月26日 ↑の典拠

 葛飾区立中央図書館蔵『妙厳寺誌』p.178に、金剛山正保寺西光院についての記述がある。

 以上の情報から考えて、奥戸2-32-19にある墓地が西光院の跡地であり、観音堂ということで間違いなさそうです。札所名が観音堂なのは戦災で焼けてしまったから。開創時作られた石の大師像がない件は詳細は不明ですが、やはり戦災によるものかもしれません。

 なお妙厳寺はいろは大師21番および88番のお寺です。

地蔵堂(森市地蔵)

 南葛「いろは大師」の十二番は奥戸二丁目の森市地蔵堂と並んで建っています。森市は人々に愛された僧侶の名前で、この地の繁栄をねがって即身仏になったと伝えられています。



【札所番号】
いろは大師:第十二番(名西郡下分上山村大字左右内・焼山寺の写)

【札所名】地蔵堂(森市地蔵・入定塚)

【所在地】

旧地名 葛飾区本奥戸
現在の地名 葛飾奥戸2-1-8

【御詠歌(いろは大師12)】本尊虚空蔵菩薩
のちのよを おもへばくぎやう せうさんじ しでやさんずの なんじよありとも

【いろは大師、次の札所】
二十三番正福寺へ十二丁



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今昔マップより奥戸の地図。左側は昭和の中ごろの地図、

 ここは南葛八十八ヶ所いろは大師の十二番です。大心講『御詠歌集』には旧・葛飾区本奥戸町(現・奥戸二丁目)で、次の札・所正福寺へ十二丁、前の札所・観音堂から四丁とあります。

 観音堂というのは4〜500mくらい離れたところにある墓地らしいんですが、そこには地蔵堂はあっても観音堂がなく、いろは大師の像もないためわたしは首を捻っています。ただ、仮にそこを札所として、そこからの距離、正福寺への距離などを考えると、場所は森永乳業があるあたりかなあと思うのですよね。

 そういえばこのあたりに、森市という旅の僧侶が即身仏になったとされる入定塚があって、昔見に行ったことがあるんですが、たしかそこにお堂があったような気がすると思い行ってみたら当たりでした。

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森市地蔵堂遠景
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二つ並んだお堂、手前が大師堂
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南葛いろは大師第十二番大師像
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森市入定塚と南葛大師(いろは大師)の由来を説明する看板

 森永乳業の北の川沿いにお堂がふたつならんでいます。向かって左側のお堂は森市地蔵堂です。現地の解説板によると、聖徳太子像の後ろに地蔵尊が安置されているとのこと。のぞいてみましたが、奉納された無数の袈裟などでぐるぐる巻になっていて何の像かもよくわかりませんでした^-^

 向かって右のお堂が大師堂です。中には第十二番の台座に安置された大師像があり、いろは大師のものだとわかります。

 恵心和尚(宇田川万太郎氏)が開創した南葛八十八ヶ所(当ブログでは「いろは大師」と呼んでます)は大正14年の開創です。各札所には大師堂と大師像があります。昭和61年までは大心講が霊場をめぐる行事を行っていたそうです。その後は後継者不足などでほぼ活動していないようです。

 各地に残された霊場は、お寺にあるならそのお寺で、路辺にあるなら地元の有志がお世話しているようです。あくまで気持ちでしていることなので、もう長い事誰も訪れていないのだろうなと思うような場所もあります。

 こちらは奉賛会があり、入定塚とともに地元のみなさんが手厚くお世話されています。

 先にもかきましたが、森市というのは旅の僧侶の名前です。解説板では六部とされています。六部というのは法華経を六十六回写経して、六十六ヶ所の霊場に納めて回る行者の事なのですが、寺を持たず諸国を行脚しているような旅の托鉢僧などのことも六部と呼んだりします。昔はそういう流れの僧侶がけっこういたらしいです。
 森市がどういう人だったかは、もうわからないのですが、どこからか流れてきて、この地の人に慕われ、ここに骨をうずめようと思ったんでしょう。親切にしてくれた村人の幸せやこの地の繁栄を願って、自ら穴に埋められて、飲まず食わずで読経を続けて即身仏になったと言い伝えられているそうです。

東新小岩・正福寺

 東新小岩・正福寺は南葛「いろは大師」の二十三番、番外奥の院であり、同「南回り」の七十七番札所です。「四箇領」の二十二番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第二十三番(海辺郡日和佐町・薬王寺の写)
いろは大師:番外・奥の院
#( )内は『御詠歌集』に従っています。海辺郡ではなく海部郡でしょうか。

南回り:第七十七番

四箇領:二十二番

【札所名】正福寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾上小松町
現在の地名 葛飾東新小岩4-8-4

【御詠歌(いろは大師23)】本尊薬師如来
みなひとの やみぬるとしの やくわうじ るりのくすりを あたへましませ

【いろは大師、次の札所】
二十八番東光寺へ十二丁半

【南回り、次の札所】
七十八番、鹿骨・密蔵院



 

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東新小岩正福寺、二つの大師堂

 東新小岩の正福寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の二十三番ならびに番外奥の院であり、南回りの七十七番でもあります。また四箇領の二十二番でもあります。境内に大師堂がふたつ並んで建っています。両方ともいろは大師の札所だと思われます。「いろは大師」「南回り」という呼び分けについては目次のページをご覧ください。

 南回りと四箇領は大師像などの造立を行わないスタイルだったようなので、名残というのは基本ありません。運がいいと南回りには札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額が残っている場合もあります。四箇領は標石などの石碑がある場合もありますが、ここではみつかりませんでした。#追記:南回りにも一部の札所には固有の大師堂があります。

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南葛いろは大師番外奥の院の大師像
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奥の院の像の台座の向かって左脇面

 大師堂のうち、本堂に近いほうは「奥の院」と呼ばれているいろは大師の番外札所のようです。じつはこの番外、大心講の『御詠歌集』には載っていません。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』には、二十三番と同じく正福寺にあると書かれています。

 奥の院の像は高野山と刻まれた台座に安置されています。この台座の左脇面を見ると(不明瞭で見づらいとは思いますが)

大正十三
甲子年
願主
釈大雲?
(以下1〜2行かすれている)

と書かれています。

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南葛いろは大師第二十三番大師像
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二十三番の台座、向かって右面
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二十三番の台座、向かって左面
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二十三番の台座背面、斜め上から写して画像処理で歪みをとったもの

 奥の院の隣りのお堂には、第二十三番の台座に安置された大師像があります。堂内に余裕があったため、台座の左右脇面と背面をどうにか写せました。人名は読み間違いがあるかもしれません。

【向かって右面】
納人 大字曲金
 羽二塚兼行?
 同 礼人?
 同 鉄五郎
 念仏講中
大正十三年十一月
       十日

【向かって左面】
主任   三田■助
世話人 同 甲八?
     横川定次郎?
     橋本福造
     牧野福太郎
     奈良橋■■
     三田三吉
     牧野栄吉
     橋本要造?
     三田■■郎 

【背面(たぶん左面の続き)】
牧野喜平次
三田綱吉
同 ■助
■野■郎
加藤■■
渋谷卯之助
■…
同 吉■郎
牧野■助
■佐■…
■…
■…
三田■…
加藤庄吉?

発起者
 当山住職
  ■…
  宇田川万太郎?

 人名は石が欠けてかすれたり、写真がピンボケだったりすると、類推がきかないので間違いがあるかもしれません。特に背面の当山住職以降が写真ではほぼ潰れてしまっています。ただ、最後の行は文字の形からして宇田川万太郎氏のような気がします。この方が南葛八十八ヶ所いろは大師を開創した恵心和尚だそうです。

 いろは大師は大正14年の開創ですが、いっぺんに八十八ヶ所作ったのではなく、大正12年から段階的に札所を作っていたとされています。大師像はどの時点で作ったんだろうと思ってたのですが、このお寺の像はどちらも大正13年ですから、像も段階的に増やしていったということなんだと思います。


 正福寺には二つの地蔵堂があったり、関東大震災の被害を記録した石碑があったりと、見どころがけっこうあるのですが、地蔵堂は写真の写りがあまりよくなかったので、いつかまたお参りに行けたらいろいろと追記しようと思います。

弘法大師 空海 密教