篠崎町・無量寺
【札所番号】
南回り:第三十四番
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区篠崎町3-70 |
現在の地名 | 江戸川区篠崎町3-5-15 |
# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。江戸川区内は川や道路の工事で大々的に丁目や番地のふりかたが変わるなどしており、昔の資料にあたる時に必要になるかもしれないので書いてみることにしました。
【御詠歌(南回り34)】
【南回り次の札所】
三十五番、東小岩万福寺
当ブログは、同名で二系統存在する南葛八十八ヶ所「いろは大師」と「南回り」に注目して寺院等をまわっています。詳しくは目次のページをご覧ください。
さて、篠崎町の無量寺は南葛八十八ヶ所南回りの三十四番だということです。南回りの札所リストは下町タイムスの『江戸・東京札所事典』を典拠にしています。南回りは明治43年の開創で、そう長くは活動していなかったかもしれません。そのため札所とされるお寺に活動していた当時の名残が残っていないことが多いです。こちらのお寺にも、見える範囲にはなさそうでした。
以下は八十八ヶ所とは関係ないけど無量寺の見どころです。せっかくなので手持ちの写真は出していこうかと思います。
観音堂の中には中央に金色(こんじき)の観音様、向かって右に大きな閻魔大王像が安置されていました。皮に鳳凰の絵がついた立派な楽太鼓(枠に昭和三十五年の日付が入っている)もありました。
この石仏は向かって右が笠付き庚申塔で、『江戸川区史』によれば享保九年のものとのこと。中央は地蔵尊。左は塩でこすられたのかだいぶ磨滅していますが、たぶん馬頭観音ではないかと思います。現在は本堂向かって左手奥に安置されています。わたしが見ている『区史』は昭和51年版で、この本にも「山門入り口に」と書かれています。先に写真を貼った「沿革」には昭和58年〜平成10年にかけて昭和の大普請を行ったとあるので、移されたのはその頃だと思います。
このタイプのお地蔵さんだと、左手に宝珠、右手に錫杖を持ってる事が多いので、これもそうなんだとは思うのですが、錫杖の柄にしてはずいぶん太くてよじれてますね。向かって左の植え込みの中にも地蔵尊がありました。
東小岩・東養寺
【札所番号】
南回り:第三十六番
【札所名】東養寺(真言宗豊山派)
【所在地】
現在の地名 | 江戸川区東小岩2-5-9 |
【御詠歌(南回り36)】
【南回り次の札所】
三十七番、東小岩善養寺
東小岩の東養寺は南葛八十八ヶ所南回りの三十六番札所ですが、南回りの札所だった名残は見える範囲にはなさそうです。もしあれば、三十六番の御詠歌と、東京弘山講、明治四十五年五月、などと刻まれた扁額が残っているのですが、もう100年以上たってますから残ってるお寺が少ないです。
こちらのお寺は『江戸川区史』によれば鴻ノ台合戦のおりに滅亡した里見家の家老の持仏・木像薬師如来立像を本尊として草創されたとのことです。鴻ノ台合戦というのは、たぶん国府台合戦のことだと思います。国府台と書いて「こうのだい」と読みます。
境内に本堂のほかお堂がいくつかありまして、うちひとつは「延命地蔵尊」のお堂です。『区史』によれば「本堂前の延命地蔵尊はもと小岩駅前の通称地蔵通りにあったが、昭和三十八年ここに移された」とのこと。あっ、これかー!JR小岩駅前に地蔵通りってあるんですよ。なのに地蔵はなくて、どこにあるんだろうなって昔ブログに書いたら、どこそこのお寺に納められているそうですって教えてくれた人がいて、いつか探しに行こうって思ったまんまになってました。とうとうたどり着きましたよ…
地蔵通りについて書いた13年くらい前のブログ記事
www.chinjuh.mydns.jp
前半長々と眼鏡のことを書いてますが、後半で地蔵通りの話をしています。
東養寺には境内に小堂がもうひとつあります。本堂向かって右手にあって、写真をとりそびれたのですが、ガラス越しに中を覗いてみて「ここもお地蔵さん?」と思った記憶があります。ただ、一部ネット情報に大師堂だと書いてる人がいて「あれ、そうだっけ?」とという感じです。写真はとらなかったのでわたしの記憶違いかもしれません。近くへ行くことがあったら確認してこようかと思います。大師堂だったら、もっとよく見れば南回りの扁額が納められている可能性もありますし。←大師堂じゃなかったです。↓下に追記
【追記】2020年1月28日
図書館に本を返しに行く用事があったので再訪しました。
写真左が本堂、右に小さく写っている黒っぽいお堂が延命地蔵尊(昔、小岩駅前の地蔵通りにあったもの)。真ん中のお堂Aが何かですが、中を拝見しましたところ、仏像が三体安置されていまして、自分にはすべて地蔵尊に見えました。お堂の中には個人名が記されている卒塔婆も沢山納められているので写真の掲載は控えますが、
中央の大きな仏様は幼子を抱いていて、手に持っているのは経典(巻き物)でしょうか。耳飾りに瓔珞(首飾り)もつけているので地蔵菩薩であって、弘法大師象ではないと思う。
その足下にある二体の石像は、どちらも座像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持ってるから、わりとよく見るお地蔵様のデザインだと思います。
というわけでお堂Aも地蔵堂でした。少なくとも大師堂じゃなかったです。
そういえば、こちらのお寺には地蔵堂がほかにもあって、お堂Aとお堂Bの間に、六地蔵と、もう一体別のお地蔵さんがいるお堂もありました(下の写真)。
東小岩・善養寺(小岩不動尊)
【札所番号】
南回り:第三十七番
【所在地】
現在の地名 | 江戸川区東小岩2-24-2 |
【御詠歌(南回り37)】
【南回り次の札所】
三十八番・北小岩宝林寺
東小岩の善養寺は、昔から小岩不動尊として親しまれています。南葛八十八ヶ所南回りの第三十七番札所ですが、南回り固有の扁額は見える場所にはなさそうです。
上の写真は本堂の軒下に掲げられている扁額です。くずし字で書かれていますが、下のように読みます。
これは南葛南回りとは関係ないものです。南回りならば三十七番なので善養寺は「土佐国岩本寺写」になります。
では、本堂に掲げられた八十八番大窪寺写は何かというと…実はこちらのお寺には境内に八十八ヶ所があったりするんですよね。
小道の両側に大師像が並んでいて、ここを参拝しながら歩くと、四国八十八ヶ所をまわったことになるそうです。詳しい説明がなかったので「たぶん」ですけど、ここを通り抜けたあとに、改めて本堂で手を合わせれば、八十八ヶ所まわりきったことになるんじゃないなと思います。
このブログで注目している南葛八十八ヶ所いろは大師と、同名の南回りは、四国霊場の写しを郷土全体にちりばめて、徒歩ならば最低でも四日もかかるような大掛かりな霊場めぐりです。でも、ときおりこちらの寺みたいに、庭園を散策するだけで八十八ヶ所まわったことになるミニ霊場巡りもあります。
境内にある影向(ようごう)の松は、樹齢600年以上とされる松の古木です。写真で空を覆っている枝は、すべて一本の松の木から生えているという、すばらしいものです。東京都と国の天然記念物に指定されています。
松の木の下に、影向の石というものがあります。その昔、寺に忍び込んだ泥棒が、この石に足をかけたとたんに動けなくなりました。そこへ不動明王が現れて、泥棒に宝剣をつきつけて盗みなど働いてはならんと恐い顔でさとしました。泥棒が泣いてお詫びすると、お不動様は姿を消し、石に張り付いた足も離れたと伝えられています。
このお寺には言い伝えが沢山あって「伝説のマーケット」と呼ばれているほどだと『江戸川区史』にも書いてあります。どんな伝説があるかは、昔書いた記事がありますので、よろしければ下記をご覧ください。
東小岩万福寺(萬福寺)
【札所番号】
南回り:第三十五番
【札所名】万福寺(真言宗豊山派)
【所在地】
現在の地名 | 江戸川区東小岩2-2-4 |
【御詠歌(南回り35)】
【南回り次の札所】
三十六番・東小岩東養寺
2021年も明けて20日ほどたちました。東京は新型コロナの陽性者が連日1000人を超える勢いで、緊急事態宣言も出ましたがなかなか収まりませんね。昨年の宣言のときも今より厳しい自粛要請だったのに効果が出るまで時間がかかりましたから、落ちつくのにまだしばらくかかるかもしれません。
お寺めぐりは基本屋外ですし、よほどの観光地でないかぎり密になったりは決してないのですが、現地まで行くのにバスに乗ることも多いです。そうなると、やはり自粛すべきなんだろうなと思います。良く晴れたきもちのいい日などは、出かけたくて仕方がないんですけどねー。
それでも宣言前に参拝した札所の写真がいくつかあるので更新していきたいと思います。すでにいろは大師の札所はめぐりきりましたので、これからの更新は基本みんな「南回り」の札所です。ついでがあって出かけた時などの撮影するので番号順ではなく、きまぐれに、ランダムに更新していきます。(いろは大師、南回り、という呼び分けについては目次のページをご覧ください)。
ただ、この先はおそらく読んで面白い感じにはならないんです。それというのもほとんどのお寺が「ここは南回りの○番札所」とわかっているだけで、なんの痕跡もなさそうなんですよね。
南葛八十八ヶ所の南回りは固有の大師像や大師堂の造立をおこなわないスタイルだったようです。明治45年に札所番号と御詠歌を刻んだ木の板(扁額)を各札所にかかげているようなんですが、なんせ木の板ですし、途中に戦争もありました。もう残っていない場合が多いんです。
今回ご紹介する東小岩・万福寺もそうです。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』で南葛八十八ヶ所南回りの三十五番をこのお寺だとしていて、順路的にも矛盾がないので間違いないとは思うのですが、残念ながら札所の痕跡は残っていないようです。
東小松川・永福寺
東小松川・永福寺は南葛「南回り」の第八十七番札所です。本堂の軒下に御詠歌の扁額が掲げられています。
【札所番号】
南回り:第八十七番
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区東小松川2-4453 |
現在の地名 | 江戸川区東小松川2-1 |
# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。江戸川区内は川や道路の工事で大々的に丁目や番地のふりかたが変わるなどしており、昔の資料にあたる時に必要になるかもしれないので書いてみることにしました。
【御詠歌(南回り87)】
あしびきの やまどりのをの ながをでら あきのよすがら みなをとなへて
【南回り次の札所】
八十八番宝積院
東小松川の永福寺は、南葛八十八ヶ所南回りの八十七番です。八十八番の宝積院のすぐ近くにあります。
境内に大師堂はなく、本堂正面の軒下に扁額が掲げられています。扁額まで距離があるのと、文字が薄れてしまっているのとで、スマホでは上に貼った写真が精いっぱいでした。それでも拡大するなどして読むと、下のような文字が読み取れます。
新四国南葛■…
第八十七番御本尊観世音
あしひきの
やまどりのをの
ながを■■
あ■の■す■■
■■■■■へて東京■■■
明治■■■年
五■ 納施主
(二人分の人名)
「新四国南葛」と書いてあって、奉納されたのが「明治」なので、いろは大師ではなく「南回り」の扁額であることがわかります。もっともこの写真を撮った時のわたしは、まだ「へえ、いろは大師の八十七番か」と思ってました。南葛八十八ヶ所が二系統あると知らなかったからです。
その後、図書館で資料を探すなどして、いろは大師は大正14年開創だと知りました。明治40年代の日付が入った扁額はいろは大師ではなく、まったく別の「南葛八十八ヶ所」のものだとわかりました。当ブログでは呼び分けるために、東小松川を通る南葛を「南回り」と読んでいます。詳しくは目次のページをご覧ください。
この記事を書いている今では、すでにいくつかの札所をまわっていて、どうやら南葛南回りは固有の大師堂・大師像を造立する活動を行っていなかったようだとわかっています。
全国各地にある八十八ヶ所めぐりはお遍路さんで有名な四国の八十八ヶ所霊場をコピーしたものです。遠くまで行かなくても地元でお遍路さんをできるようにしてるわけです。かならずしも固有の大師像は必要なくて、札所に指定されたお寺でお経をあげたりするだけという場合も多いんです。このあたりだと荒川辺、荒綾、四箇領などの八十八ヶ所めぐりがありますが、いずれも固有の大師像はありません。
ただ、それだけだと「札所は本当にここかな?」となってしまうので、途中に道標の石碑を建てたり、札所番号と御詠歌を書いた扁額(木の板)を納めて掲げておいてもらったりしたんだと思います。南葛南回りの場合だと、おそらく昔は各札所に扁額があったと思われます。
ただ、木の板なので劣化したり、戦災で焼けたりで、失われてしまったものが多く、残っているお寺はたぶんあまりないと思います。まだすべての札所をまわりきっていませんが、これまでに見つけて例だと
39番 真光院/江戸川区北小岩4-41-6
40番 正真寺/江戸川区北小岩7-27-5
87番 永福寺/江戸川区東小松川2-1-15(今見ているこのページ)
88番 宝積院/江戸川区東小松川2-1-16
この四件だけです。