二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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新四国南葛八十八ヶ所いろは大師の由来

【ページ内リンク】
いろは大師の由来
参考文献『御詠歌集』について
もうひとつの資料『江戸・東京札所事典』について
いろは大師札所の特徴


 南葛八十八ヶ所は成立年もお世話していた講も違う二系統存在しています。当ブログでは恵心和尚が大正14年に開創したものを便宜的に「南葛いろは大師」と呼称しています(もう一方は「南葛南回り」と呼んでいます)。

 このページでは南葛いろは大師の由来(開創の物語)と、わたしが札所を回る時に使っている資料の説明をします。


いろは大師の由来

 以下の話は昭和五十四年発行の『南葛八十八ヶ所御詠歌集』の「はしがき」と「新四国南葛八十八ヶ所霊場開創縁起」に書いてあることを、やや易しくまとめたものです。この本は南葛いろは大師をお世話している大心講と一番札所がある善紹寺で編纂したもので、おそらく今は購入できないのですが、葛飾区立中央図書館で読むことができます。わたしはこの本の必要な部分をコピーして資料にしています。

 【追記】なお、大心講は「だいしこう(大師講)」と読むそうです。葛飾区内で札所の研究をなさっている方から教えていただきました。



 新四国南葛八十八ヶ所(いろは大師)は、大正8年から段階的に開かれ、大正14年に八十八ヶ所霊場として完成しました。

 発願主の恵心和尚は大正8年の仲秋に庭木の手入れをしていたところ、あやまって木から落ちて小枝で左目を突いてしまいました。あまりの痛さに和尚は家に入り、四国霊場マンダラを拝して
「普段から大師を信仰してきたのは、ひどい不運に見舞われないようにとの思いからです。それなのにこのような目にあうとは、大師はわたしをお見捨てになったのですか」
と、一心に祈りながら、薬水に目を浸しました。

 やがて夜になると痛みがやわらぎ、翌朝にはすっかり消えていました。これは薬水が効いたのだなと思い、和尚は弘法大師の功徳だとは思わなかったのです。

 すると、その夜のうちに再び激痛に襲われ、これは大師の罰が当たったに違いないと、和尚は大変反省し、懺悔の祈りを捧げました。

 傷はすぐには治りませんでしたが、やがて頬がぷっくりと膨らんで一日に二度も三度も膿が流れ出すようになり、それが一ヶ月くらい続いたあとに跡形もなく治ったということです。

 恵心和尚はこの体験に感激し、自宅の庭に小さな大師堂を建立し大正8年11月21日に入仏供養を行いました。これが今は奥戸の善紹寺にある元大師だということです。

 その後何度も恵心和尚は弘法大師霊場を建立せよとの夢を見て段階的に霊場を開いていきます。

  • 大正12年5月23日に夢にお告げあり、その年の8月10日に二十一ヶ所霊場を建立。
  • 大正13年8月に再び夢にお告げがあり、11月5日に二十四ヶ所霊場を建立。
  • 大正14年3月三度目の夢のお告げがあり、7月5日に四十二ヶ所霊場を建立。

 こうして八十八ヶ所霊場が完成したのです。この八十八ヶ所は旧南葛飾郡の51ヶ村にわたっており、いろは51文字(ヤ行とワ行も数えてンを足すと51文字)と一致していたので、恵心和尚が最初に建立した元大師をいろは大師と呼ぶようになりました。

 さらに大正15年3月には四国を巡拝し、霊場の御土砂を拝受して南葛新四国霊場にまいたということです。このときのご縁で四国霊場八十八番大窪寺の僧正は、南葛八十八ヶ所のために村内の山から老霊木を選んで恵心和尚に授けたといいます。

 この霊木で百余りの霊像を彫り、昭和3年3月5日に大供養を行ったということです。


 目次のページにも書きましたが、当ブログでは恵心和尚が発願して開いた霊場めぐりを「南葛いろは大師」または「南葛北回り」などと呼んでいます。

 恵心和尚が南葛いろは大師を開創する以前、別の講によって明治43年に順路が葛西のほうを通る南葛八十八ヶ所が開創されています。呼び分けられないと面倒なので、当ブログでは明治開創のものを「南葛南回り」などと呼んでいます。

参考文献『御詠歌』について

 わたしが南葛いろは大師をめぐる資料としているのは大心講が編纂した『南葛八十八ヶ所御詠歌集』です(以下『御詠歌集』と略します)。この本はたぶんもう販売されていないと思うのですが、昭和54年の第四版が葛飾区立中央図書館に所蔵されています(館内でのみ閲覧可。コピーはできます)。初版はいろは大師が開創された大正14年です。

 この本には、札所のリストが二種類掲載されています。ひとつは札所名と昭和54年当時の所在地と御詠歌のリスト(以下「歌」)で、もうひとつは札所番号ともう少し古い(たぶん開創当時の)所在地、次の札所への距離のリストです(以下「順路」)。

 「歌」と「順路」とをつきあわせてみると、悩ましい事に情報が完全に一致せず、「歌」にはあって「順路」にはないとか、「歌」と「順路」で所在地が違うなどの食い違いがいくつかあります。

 「順路」のほうが古い町名で書かれており、「歌」は昭和の中ごろの町名で書かれているようです。なら「歌」が資料として新しいのか、というと、そこはわからないです。「歌」は所在地だけを書き直して、全体としては変えていないのかもしれないし、「順路」も移動があった札所のみ書き直して、古い町名には手をつけなかったのかもしれませんから。

 『御詠歌集』は、おそらく大心講の人のために作られた本でしょうし、みな事情を知っているので、多少の食い違いはあまり問題にならなかったんだと思います。

 とにかく、札所のリストが二種類あることをお見知り置きください。↓一例としてこのような食い違いがあります。

『御詠歌集』の「歌」
『御詠歌集』の「順路」



もうひとつの資料『江戸・東京札所事典』について

 下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』にも南葛いろは大師のことが書かれています。この本は1989年(平成元年)に出版されたものです。昭和五十年の第十二番札所の写真も掲載されています。

 以下、いろは大師について書かれている事をかいつまんでメモします。

  • 恵心和尚こと宇田川万太郎氏(=恵心和尚)は葛飾区の篤農家だった。
  • 大正12年に発願し、札所は段階的に選定された。一次選定、同13年に二次選定、14年に全札所の選定を終える(『御詠歌集』に書かれているのとほぼ同じ)。
  • のちに万太郎氏より子息善紹氏へ引き継がれる。
  • 昭和61年までは生きた札所として活動を続けていた。
  • 月に4日を以て一巡し、3月は10日間の日程を以て巡行大師を実施していた。(この本の札所リストは4日間でめぐるためのリストになっている)。
  • 札所の構成

葛飾区55ヶ所
江戸川区16ヶ所
墨田区14ヶ所
江東区2ヶ所
足立区1ヶ所

寺院または堂が58寺67札所
地蔵堂等が12札所
民家内9札所
神社内3札所
墓地1札所の構成

# 上記は同書の筆者が調査した当時の状況と思われる。



いろは大師の札所の特徴

南葛いろは大師、札所の特徴

 上記のイラストはわたし(ブログ筆者)が描いたものですが、台座の脇にある造立年は必ずあるわけじゃないようです。納人や世話人の名前が刻まれているだけの事もあるし、何も刻まれていない場合もあります。たまに台座が失われている事もあります。また、造立年は背面に刻まれている場合もあります。

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