二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

真光院

 北小岩・真光院は、南葛「いろは大師」の第二十六番であり、「南回り」の第三十九番でもあります。境内の大師堂内にあるのはいろは大師のもので、堂内にある御詠歌の扁額はみなみまわりのものです。



【札所番号】
いろは大師:第二十六番(安芸郡大字元・西寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。大字元は室戸村大字元(旧元村)だと思います。

南回り:第三十九番(宿毛市平田町中山・延光寺の写)

葛西廿一ヶ所:番号不明

【札所名】真光院(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 江戸川区小岩田
現在の地名 江戸川区北小岩4-41-6

【御詠歌(いろは大師26)】
わうじやうに のぞみをかくる ごくらくは つきのかたむく にしでらのそら

【御詠歌(南回り39)】
なむやくし しよびやうしつぢよの ぐわんなれば まいるこのみを たすけたまへよ

【いろは大師、次の札所】
二十五番の十念寺へ十一丁

【南回り、次の札所】
四十番、北小岩正真寺



 

f:id:chinjuh3:20201027113457j:plain
真光寺の大師堂(手前のお堂)
f:id:chinjuh3:20201027113248j:plain
南葛いろは大師第二十六番大師像

 真光寺は南葛いろは大師の二十六番で、南葛南回りの三十九番でもあります。大師堂は本堂に向かって右手の塀沿いにあり、庭木などの影になっていて目立たない場所にありました。お堂の扉が開かなかったので、格子の隙間から撮影しています。

 お堂の中には石の大師像が一体、第二十六番の台座に載せられています。この像自体は大心講の人たちが作った「南葛いろは大師」のものです。

 このお寺では「南葛南回り」のものである御詠歌が刻まれた板も残っています。

f:id:chinjuh3:20201027113308j:plain
東京弘山講の文字が見える御詠歌の刻まれた板

新四国南葛八十八ヶ所
第三十九番御本尊薬師如来
 なむやくし
  しよびやうしつぢよの
   ぐわんなれば
  まいるこのみを
   たすけたまへよ
 東京弘山講
明治四十五年
五月
施主 田代キン子

 板(扁額と言うべきなのかも)にはこのように刻まれています。

 わたしが南葛南まわりの資料として使っているのは、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』という本です。この本によれば、南回りを開創し、お世話していたのは東京弘山講の人たちで、開創は明治43年12月とのことです。まさにこの扁額はこのお堂が「南回り」の札所だったことを意味しています。

 この記事を書いている現在、南葛南回りの札所はまだあまり回れていないのですが、わたしが行けた範囲では大師堂がないことが多く、痕跡がある場合、これと同じような木の板に札所番号と御詠歌、明治四十年代の日付が刻まれているものが掲示されていました。

 それとこのお堂には、もうひとつ別の霊場めぐりの目印がありました。

f:id:chinjuh3:20201027113242j:plain
葛西廿一ヶ所御掛所と刻まれた板

 この板には「奉納 葛西廿一ヶ所 御掛所 明治四十三年七月吉日 東京八十八 御茶湯講」と刻まれています。「葛西廿一ヶ所」はまったくの未知で、このお寺で始めて見ました。

 「三十九番」の板とは奉納した講の名前が違うのですが、年代が近いことなどから、もしかしたら何か関係があるのかなあと首を捻っています。

 知られざる札所をめぐるわたしの旅が進めば、何か手がかりがつかめるでしょうか。



【おまけ】真光院の庚申堂

f:id:chinjuh3:20201027112928j:plain
真光院の庚申堂?
f:id:chinjuh3:20201027113002j:plain
庚申堂?前の青面金剛の文字の石碑(右)と青面金剛像(左)

 真光院の前には庚申堂らしきお堂があります。お堂の入り口にある二基の石碑はあきらかに青面金剛なので庚申塔です。お堂の中には、ドラえもんらしき謎の石像(笑)…いや、これは冗談として、中央の石像がちょっと変わっていると思うんです。大きな光背の前に、頭を高く結って、手に笏(杓)のようなものを持った菩薩らしき像が二体並んで立っています。このあたりじゃあまり見かけないものなんですが、一体なんなんでしょうこれは。わたしが知らないだけで良くあるものですか?

弘法大師 空海 密教