良観寺(元五十二番?)
【札所番号】
いろは大師:元五十二番?
# 「歌」では五十二番、順路には記載なし(五十二番は別の寺)
【札所名】良観寺(真言宗豊山派)
【所在地】
旧地名 | (記載なし) |
現在の地名 | 葛飾区柴又3-33-13 |
【御詠歌(いろは大師)】
たいさんへ のぼればあせの いでけれど のちのよをもへば なんのくもなし
【いろは大師、次への順路】
(記載なし)
わたしが南葛いろは大師をめぐる資料としているのは大心講が編纂した『南葛八十八ヶ所御詠歌集』です(以下『御詠歌集』)。此の本はたぶんもう販売されていないのですが、昭和54年の第四版が葛飾区立中央図書館に所蔵されています(館内でのみ閲覧可。コピーはできます)。初版はいろは大師が開創された大正14年です。
この本には、札所のリストが二種類掲載されています。ひとつは札所名と昭和54年当時の所在地と御詠歌のリスト(以下「歌」)で、もうひとつは札所番号ともう少し古い(たぶん開創当時の)所在地、次の札所への距離のリストです(以下「順路」)。
良観寺は「歌」に「第五十二番 温泉郡和気村大字大山寺・大山寺の写 葛飾区柴又三丁目 良観寺」と書かれています。ところが「順路」には良観寺がなく、五十二番は新宿法蓮寺とされています。
このとおり、「歌」と「順路」で情報が違っています。こうした食い違いは他にも何件かありました。
所在地をよく見ると「順路」のほうが古い町名で書かれており、「歌」は昭和の中ごろの町名で書かれているようです。なら「歌」が資料として新しいのか、というと、そこはわからないです。「歌」は所在地だけを書き直して、全体としては変えていないのかもしれないし、「順路」も移動があった札所のみ書き直して、古い町名には手をつけなかったのかもしれないですから…
『葛飾区史』の寺院の項目を読むと、良観寺は昭和12年まで今よりもっと東にあったそうなんですが、金町浄水場の拡張により今の場所に引っ越してきたそうです。つまり、いろは大師開創当時と場所が違っているということです。
さらに、昭和20年2月に戦災で焼失し、現在の本堂などは戦後間もなくに建て直したものとのことです。
あくまで想像ですが、もともとの第五十二番は良観寺にあったんじゃないでしょうか。寺が移転した時か、戦災で焼けてしまった時に、法蓮寺に預けられて、そのまま戻されなかったのかもしれません。
現在の良観寺にも大師堂はあるのですが、お堂の中には小さな木の大師像があり、南葛いろは大師との関係がうかがえるような痕跡は見当たりませんでした。
お堂のそばに石碑が二基ありますが、これらは「四箇領八十八ヶ所」の案内で、いろは大師のものではないですね。
左側の古い石碑には「二十九番土州国分寺模」「天保十五甲辰年三月」などと刻まれています。二十九番は「四箇領」での札所番号です。新しいほうは「三十番へ」「二十八番へ」と刻まれており、次と前の札所への道標になっています(ああ、これ八十八石の仲間だ!)。
というわけで、良観寺は現在ではいろは大師の札所ではなさそうなのですが「歌」に記載があるので「元五十二番」ということで記事にしてみました。