奥戸・妙厳寺
奥戸妙厳寺は南葛「いろは大師」の第二十一番、第八十八番札所であり、南葛「南回り」の第六十二番札所でもあります。「四箇領」の第十八番でもあります。
【札所番号】
いろは大師:第二十一番(那賀郡賀茂谷村・大龍寺の写)
いろは大師:第八十八番(大川郡奥山村・大窪寺の写)
南回り:第六十二番
四箇領:第十八番
【所在地】
旧地名 | 葛飾区奥戸妙厳寺 |
現在の地名 | 葛飾区奥戸3-28-10 |
【御詠歌(いろは大師)】
二十一番:だいりうの つねにすむぞや げにいわや しやしんもんぢは しゆごのためなり
八十八番:南無やくし しよびやうなかれと ねがひつゝ まいれるひとは おほくぼのてら
打ち納め:ありがたや こゝがおふだの うちをさめ またもごゑんを むすびたまへや
【いろは大師、次の札所】
第八十八番、同所
【南まわり、次の札所】
第六十三番、浦安市・宝城院
# ただし、63番は奥戸・妙厳寺から完全に離れています。日を改めて移動したものと考えられます。
妙厳寺は南葛いろは大師の二十一番と八十八番です。いろは大師は一番の札所もすぐ近くにあります。奥戸に始まって奥戸に終わる形ですね。また南葛南回りの六十二番でもあります。
このブログのタイトルでもありますが、新四国南葛八十八ヶ所と呼ばれている霊場めぐりは旧南葛飾郡に二系統ありまして、呼び分けられないと面倒なので順路が亀有を通るのものを「南葛いろは大師」、葛西を通るものを「南葛南回り」と呼んでいます。
またこのお寺は四箇領八十八ヶ所という、さらに別の霊場巡りの札所でもあります。
上に貼った写真のとおり境内に同じ形のお堂が三つならんでいて、向かって右端は地蔵堂で、真ん中がいろは大師の二十一番、左端がいろは大師の八十八番です。
八十八番はほかの札所と同じく石像なのですが、二十一番のお堂には木製で昔の椅子の上に座った大師像が納められていました。
台座の脇面には右から左への横書きでいろは歌が刻まれていました。造立年は脇面にはないようです(裏は手が入らないので撮影できない)。
こちらのお寺には、北側の門から入ってすぐ右手の平沿いに、いろは大師の十周年記念塔と、その塔の維持費として二百円(貳百圓)が大心講から寄付されたことが刻まれた石碑があります。
記念塔鐘堂維持資料
一金貳百圓
昭和十二年一月 南葛大心講一同
もうひとつの南葛八十八ヶ所である「南回り」は大師堂や大師像を造立しないスタイルだったようで(注意:南回りも一部の札所には固有の大師堂があります)、たいていのお寺にはもう痕跡すらありません。運がいいと札所番号と御詠歌が刻まれた扁額(板)が残っていることもあるんですけど、こちらにはなさそうです。
四箇領も大師堂のない霊場巡りなんですが、白い御影石の道標(そのお寺の札所番号か、八十八という漢数字が刻まれている杭状の石)が、もしかするとお寺の門前にあるかもしれませんが、うっかり探しそびれてしまいました。
その他メモ
- 先祖代々九人之霊位
- 妙厳寺の旧墓地に祀られているもので、檀家ではないものの縁のある信徒で奥戸の白井という家で代々守ってきたものだという。その由来は、むかしひどい飢饉がありみな食うや食わずだった。中でも貧しい七左衛門の家では一家九人が飢え、しかたなく「釜借り」をして命をつないでいた。食事が済む頃をみはからって隣近所で釜を借りると、まだ洗う前なのでご飯粒がついたまま貸してくれる。それを洗って粥として食べていたというのである。七左衛門は朝は白井家、夜は別の家で釜を借りていたが、みな事情を知っているのでなるべくご飯粒を残して釜を貸していたという。ところがある朝、事情を知らない女中がきれいに洗った釜を七左衛門に貸してしまう。その翌朝、七左衛門が釜を借りに来ないので心配した白井家の者が様子を見に行くと、一家九人が枕を並べてなくなっていた。あくまで言い伝えとのことではあるが、白井家には七左衛門一家の位牌も残っており、仏壇にお線香をあげる時は必ず1本は七左衛門にと言って火をつけるとのこと。これも上記の『妙厳寺誌』にある話。
- あすなろ幼稚園の園歌