二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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東覚寺

 細田の東覚寺は、南葛「いろは大師」の第二番であり、南葛「南回り」の第五十四番です。また四箇領の第二十五番でもあります。現在知られているどの霊場巡りにも属さない未知の第六十一番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第二番(板野郡大字檜村・極楽寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。大字檜(桧)は坂東町大字桧で、のちに大麻町大字桧になったそうです。

南回り:第五十四番

四箇領:第二十五番
未知の霊場:第六十一番(伊豫国香苑寺写)

【札所名】東覚寺(真言宗豊山派
# 『葛飾区史』や地図などを見ても東覚寺で掲載されてるのですが、「東学寺」と書いてた時代があるみたいです(後述)。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』でもこの寺を東学寺のほうで掲載してますね。

【所在地】

旧地名 葛飾細田
現在の地名 葛飾細田3-5

【御詠歌(いろは大師02)】
ごくらくの みだのじやうどへ ゆきたくば 南無阿弥陀仏 くちぐせにせよ

【御詠歌(未知の六十一番)】
のちのよを おそるゝへから■ かうおんし とめてとまらぬ しらたき■みつ
# ■の部分はかすれていて読めません。四国六十一番香苑寺の御詠歌は「後の世を思へば参れ香苑寺止めて止まらぬ白滝の水」とするのが普通みたいなんですが、これまでに発見されている未知の扁額は、今知られてるのとちょっとだけ違うフレーズの御詠歌が刻まれてることがあります。理由はよくわかりません。

【いろは大師、次の札所】
七十八番の石田地内へ同所
# 七十八番は現在どこにあるかわかっていません。詳しくはリンク先でお読みください。

【南回り、次の札所】
第五十五番、葛飾区鎌倉・浄光院

当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。

「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。



 こちらのお寺は南葛いろは大師の第二番で、南葛南回りの第五十四番でもあります。また四箇領の二十五番でもあります。

 二番、五十四番、二十五番という数字を覚えてから写真をご覧ください。ええ、そうです。また謎の番号がございます(笑)

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東覚寺の大師堂
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南葛いろは大師第二番大師像
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第二番の台座
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お堂に掲げられた四国霊場第六十一番の御詠歌の扁額

 おわかりでしょうか。この扁額はいろは大師第二番でも、南回り第五十四番でも、四箇領第二十五番でもない、未知の六十一番です(鼻血)

 とはいえ、この書体は見覚えがあります。浄光院謎の七十二番十念寺謎の七十八番と同じシリーズじゃないでしょうか。

 そしてもしかすると、医王寺の石碑にある謎の七十四番や、正蔵院の石碑にある別組の五十六番とかも、ひょっとしたら同じシリーズかもしれないし、違うかもしれなーいのです。あははは、頭パンクしそう。

 この、御詠歌を刻んだ扁額は、いろは大師の札所にもあるし、南回りの札所にもあるので、未知かどうかの判断はかならず書いてある内容を読みます。数字が読めれば既知の霊場めぐりのどれに属するか属さないかの判断は簡単です。番号がなかったり読めなかったりしたら、御詠歌を見ます。本場四国の何番札所の歌かを調べるわけです。

 わたしも最初、何をどう見ていいのかさっぱりわからなかったんですよね(くずし寺を読むのはわりとまあまあ得意なので読めるんですが)。御詠歌の扁額があったら中身も見ないで「たぶん南葛の」とか思ってた。その南葛八十八ヶ所が、そもそも二系統あるなんて、思っても見なくて、なんか自分が思ってるのと全然違う場所で南葛の札所を見つけて初めて「えっ、もしかして南葛八十八って二系統あるの?!」ってなった。そっからです。そこからこの長い旅が始まったのです……!

 まあそれはともかく、冒頭で書いた「東覚寺か、東学寺か」問題について書きたいんですが、下の写真を見てください。

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お堂のそばにある四箇領の石碑

 ちょっと、日差しが強すぎて、影が出来ちゃって見づらいんですけど、書いてある文字を書き出してみますね。

第廿五番 天保十二丑五月 西新井組 右■■六丁
四国八十八所 東学寺
奥戸●田
    五丁

    ▲▲▲▲

 ■■や●や▲▲▲▲は読めなかった部分なんですが、地名とかなので今回ここはあまり深く考えないでおきましょう。

 四箇領という文字がないのになんで四箇領の碑(というかこれは完全に道標ですね)だとわかるかっていうと、西新井組という文字が書いてあるからですね。わたしは四箇領にあんまり注目してないので正確な説明ができるかわからないんですが、江戸時代の霊場巡りは、すべてに正式な名称があったわけではなくて、基本なんでも新四国八十八ヶ所とか二十一ヶ所とかだったんじゃないかと思います。新四国というのは、本場四国を模して新しく作りましたという意味です。

 でもそれだと日本全国あっちこっちに新四国八十八ヶ所(または二十一ヶ所)が出来ちゃって、どれだかわかんなくなるから札所のある場所などをつけて呼ぶわけです。四箇領だったら、東葛西領、二郷半領、淵江領、八條領の四箇領を通るから今ではそういう名前で呼ばれています。その四箇領の別名が「西新井組中川通」らしいです。

 話が脱線しるのでもとに戻しますが、見てほしいのは中央に大きく書いてある「新四国八十八所 東学寺」のところですね。そう「東学寺」です。東覚寺じゃなくて学って刻まれてるんですよう。その部分だけ拡大して貼ってみます。

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東学寺って書いてありますよね?

 この石碑だけでなく、先に貼った未知の六十一番の扁額にも東学寺って書いてあるんですよー。ってことは昔は「東学寺」という表記も普通にしてたんじゃないかと思います。

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未知の六十一番の扁額にも香苑寺写東学寺って書いてある

 情報がとっちらかって来たところで、そろそろお次がよろしいようで。えっと、次の札所、七十八番も情報が錯綜してて謎ですよー。こちらから行けますのでぜひ次もお読みください。

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