地蔵堂境内(東立石四丁目ポケット公園内)
【札所番号】
いろは大師:第四十二番(南宇和郡成妙村大字則・仏木寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。成妙村は「北宇和郡」だそうです。
【札所名】地蔵堂境内(現・立石四丁目ポケット公園内
【所在地】
旧地名 | 葛飾区立石横手 |
現在の地名 | 葛飾区東立石4-12ポケット公園内 |
# 近年移転したと貼り紙あり
【御詠歌(いろは大師)】
くさもきも ほとけになれる ぶつもくじ なをたのもしき きちくにんてん
【いろは大師、次への順路】
四十番原神社内へ四丁半
南葛いろは大師四十二番は、以前は東立石四丁目の宮田家の墓地内にあったそうです。上の写真のお堂はすでに中がからになっていました。お堂に向かって左隣に墓地があります。貼り紙があり、お堂の前の道が近々拡張されるとかで、8/29にポケット公園内に移転(何年の8月かは記載なし)と書かれていました。
旧地蔵堂前に、由来が刻まれた石碑が置いてあるのですが、どうも下のほうが欠けているようで、このあと片づけられてしまう可能性もあるかと思い、文面をここに記録しておきたいと思います。
私達の町の文化財
私達の「町」には、二つの文化財があります。一つは四つ角にある地蔵
様(宝永七年 二九二年前)と宮田家墓地内にある大師堂で御座いま
す。
その昔、何処の村でも必ず神社と寺院があり、それぞれ住民の信仰の対
象となって続いてきた物ばかりで御座います。私達の「町」では、熊野神
社■「鎮守様」「氏神様」と呼んで村民の精神的なよりどころとな■て■て
いました。「鎮守様」と「氏神様」とは、性格を異にしてきましたが、■
素朴な村民たちはそんなことにこだわらず自分の村を護り、自分を護り■■
豊饒の神様として崇敬してまいりました。当時の村民の信仰は自分等の村
だけの催しに留まらず村村で信仰を同じくするグループが、講中を作り■
金をして。年に一度か二度、農閑期を利用して旅をしていたのです。お伊
勢参り。善光寺、大山、身延山富士、香取鹿島、諏訪、榛名、三峰、御■
遠くは出羽三山方面まで集団参詣が行われていました。■でも成田■■
崎、三峯などが。年に一度バスを貸し切って参詣されているのも名残で■
これらの参詣旅行の中には、俗に巡礼と呼んでいる札所の巡拝という■
がありました。四国霊場八十八ヵ所巡り。武蔵三十三観音参りなどがあ■
ましたが、遠く又、散財もするので南葛八十八ヵ所巡りというのが創ら■
ました。
葛飾郡東葛西領(葛飾区江戸川区)を中心に近接の二合半領(三■
市、吉川町)、淵江領(足立区)、八条領(八潮市、草加市)内にある■
院八十八ヶ所に新設されました。年代ははっきりと明らかではありませ■
が、現存する漂石から推定しますと天保十二年(一八四一年)頃の今か■
百六十年前奥戸六丁目善紹寺を一番としてこの近所では川端正覚寺を■■
十番、土手下の真禅寺を三十二番、原稲荷内三十九番、私達の「町」を■
る大師堂を四十二番と■■ぐる■る今の江東区、墨田区、江戸川区を巡■
奥戸妙源寺を八十八番とした古いものです。
戦前まで老若男女百名以上の巡拝が続けられて、大変に活気があり■■
た。町の子ども等は、その日、菓子が貰えるので指折り数えて待って■■
とのことです。
昭和九年に一度修理を行いました。戦前は、お地蔵様とお大師様は■■
合わせにありましたが、戦後、現在地に移転し、昭和六十三年に再度■■
工事を行い、現在に至っております。
奥戸妙源寺とかの表記は原文のままです(八十八番は奥戸妙厳寺)。町の講中で参拝旅行に行く話など興味深く、文章から郷土愛があふれています。ただ、この碑文を書いた人は、四箇領八十八ヶ所と、南葛八十八ヶ所(いろは大師)を同じものだと思い込んでいたみたいですね(東葛西領八十八ヶ所の説明も混ざってるかもしれないです^^; )。
四箇領八十八ヶ所は、石碑の説明のとおり天保年間に開創され、葛飾区、江戸川区、三郷市、八潮市、草加市、足立区を通る弘法大師霊場ですが、善紹寺を一番として奥戸妙厳寺を八十八番とする南葛八十八ヶ所は大正14年に開創された比較的あたらしい霊場めぐりです。
明治43年ごろに南葛八十八ヶ所というまったく同じ名前で札所や順路の異なった霊場巡りも開創されており、当ブログでは二つの南葛八十八ヶ所のうち、大正14年のものを「南葛いろは大師」、明治のものを「南葛南回り」と呼び分けています。
話をもとにもどしましょう。四十二番の移転先であるポケット公園は、このすぐ近くで、旧地蔵堂に向かって右手に歩いたところにありました。
大師像は阿弥陀格子の扉の向こうにありました。立派なお堂をつくってもらって、これからもこの町の人たちを見守ってくださることでしょう。古いお堂は取り壊されてしまうのでしょうか。ちょっともったいないような気もしますね。