宝町西光寺
【札所名】西光寺(真言宗豊山派)
【所在地】
旧地名 | 葛飾区宝木塚 |
現在の地名 | 葛飾区宝町2-1-1 |
【御詠歌(いろは大師36)】
わづかなる いづみにすめる せいりうは ぶつぽうしゆごの ちかひとぞきく
【いろは大師、次への順路】
三十四番慈眼院へ七丁
葛飾区宝町の西光寺は南葛いろは大師の三十六番です。寺伝によれば三つ前の札所である四つ木・西光寺と発祥が同じで、親鸞上人が大雨でこのあたりに逗留していた時に、教えに感銘をうけた葛西清重が作った「西光房」に由来しており、最初は浄土真宗の寺だったそうです。江戸時代初期の慶長十八年に真言宗に変わったとか。
この寺には江戸時代なかごろまで「十六の松」という松の大木があったそうです。親鸞上人(1173年 - 1263年)がこの木を見て「松という字を分解すると十八公となり阿弥陀様の十八本願と同じだ。わたしが広めた教えとともにこの木が千年栄えるといいのだが」と言いました。
享保年間(1716年 - 1736年)に寺の住職がこの松を抵当に村人からお金を借り、毎月十六日に返済する約束をしました。しかし返済が半年も滞ったので、村人は三人の杣人(そまびと、きこり)を連れてきて、松を切って薪にして売ろうとしました。しかし、斧を当てようとすると、なぜか三人ともめまいをおこして倒れてしまうので、切り倒してはいけない尊い木なのだと悟り、あきらめて帰ったということです。
そのような不思議な松の木でしたが天明六年(1786年)の大風雨に倒れて枯死したと伝えられています。残念ならが松は千年も生きられなかったようですが、現在でもその木の孫が境内に植えられているそうです。(寺の発祥からこの伝説までソースは『葛飾区史』)。
長々と伝説を語ってしまいました。いろは大師の三十六番ですが、境内を見回してもそれらしいお堂が見当たりません。墓地にあるかもしれないと足を向けたところ、用具入れの扉の下に、三十六番の台座が入れられているのに気づきました。
用具入れには扉の上にも隙間があるので、ちょっと覗かせていただきましたが大師像そのものはなく、台座だけが入れられていました。
どういう事情があるのかは聞かなかったのでわかりません。もし像が壊れてしまったとかなら、もう台座は用済みでしょうから仕方のないことなんだと思います。もう活動していない霊場めぐりの番号なんて、大した意味もないでしょうから。むしろどこか見えない場所に片づけられてしまう前に見られてよかったんだと思います。が、わたしはここまで番号のついた大師像をたどって長い距離を歩いてまわっていたので、呆然としました。
先に書いた十六の松の話ですが、その孫木が今も境内にあって、袈裟掛けの松と呼ばれているそうです。それは確かに見た記憶があるんですけど、頭がクラクラしていて写真に撮るのを忘れました。