二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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平井聖天・燈明寺(灯明寺)

 平井聖天・燈明寺は、南葛「いろは大師」の第五十一、六十五番であり、南葛「南回り」の第七十一番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第五十一番(温泉郡道後村大字石手・石手寺の写)
いろは大師:第六十五番(宇摩郡金田村・三角寺の写)

南回り:第七十一番

【札所名】燈明寺(新義真言宗

【所在地】

旧地名 江戸川区下平井町
現在の地名 江戸川区平井6-17-30

【御詠歌(いろは大師51)】
さいほうを よそとはみまじ あんやうの てらにまいりて うくるぢうらく

【御詠歌(いろは大師65)】
おそろしや 三つのかどにも いるならば こゝろをまろく みだをたのめよ

【いろは大師、次の札所】
八十五番北向地蔵堂境内へ六丁

【南回り、次の札所】
第七十二番、平井・正養寺



 

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南葛いろは大師第五十一番と第六十五番の大師像

 平井の聖天様こと灯明寺(燈明寺)は南葛八十八ヶ所いろは大師の五十一番ならびに六十五番です。また、同名の霊場めぐりである南葛八十八ヶ所南回りの七十一番でもあります。

 いろは大師(大正14年開創)と南回り(明治43年開創)は、作った講も順路もまるて違う別の霊場めぐりです。両方とも南葛八十八ヶ所(新四国南葛八十八ヶ所、南葛新四国八十八ヶ所など表記に揺れはある)と呼ばれているため、当ブログでは「いろは大師」「南回り」と呼び分けています。詳しくは 目次のページいろは大師の由来のページ などをご覧ください。

 像は境内入り口の花壇に置かれており、お堂はありません。それぞれ番号の台座に安置されているのでいろは大師のものだとわかります。

 南回りは大師像の造立などは行わなかったようで、多くの札所には痕跡が残っていません。このお寺にもふらっと立ちよって見られる場所に痕跡はありませんでした(運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ扁額が納められていることがある)。

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二体の大師像はよく見るとデザインが違う。

 二体ならんでいて、向かって右側が五十一番、左側が六十五番です。大きさが少し違うのと、衣の表現がそれぞれ違うので、別の石工さんに頼んで作ったものだと思います。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』には、六十五番は灯明寺の釈迦堂墓地内と書いてあるので、もとは境内の別の場所にあったものだと思います。

 堂内ではないため、花壇を荒らさないようにそっと裏へ回ったりして台座の文字を読もうとしたんですが、像同士の間があまりなかったり、土をかぶっていたりし、光の関係でよく見えなかったりと、案外厳しかったです。以下読めた部分のみ。■は読めなかった文字です。


五十一番の台座

【向かって右面】
 納人
 本田村大…(かすれているが地名)
 (個人名、かすれている)
 佐…(個人名、かすれている)
 絵…(個人名、かすれている)
 吉…(個人名、かすれている)
 菊田文五郎?(ややかすれ)

【向かって左面】
 下平井
 主任  鈴木■吉
 副   鈴木初■郎
 副   ■越■…(隣りの台座のかげ)
 世話人 鈴木仙…(同)
 〃   佐藤仁…(同)
 〃   鈴木…(同)
 〃   …(同)

【裏面】
 (全体に土で汚れていてよく読めない。多数の人名と「発起人」「大正」などの文字が見える)

 
六十五番の台座

【向かって右面】
(隣りの像との隙間が狭くて読めず)

【向かって左面】
   平井世話人
   ■村嘉吉
   高橋五郎三郎
   遠藤斧吉
   田口常三郎
副  岩田三…(隣りの像のかげになり読めず)
■人 岩田秋…(同)
   島村幸…(同)
   鈴木甚五…(同)
   鈴木市五…(同)
   鈴木周…(同)
   島村…(同)
   …(同)

【裏面】
(文字はないように見えるが、土を払い落とさないとわからない)

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像の裏面

 この写真は文字を読むために写したもので、花壇をあらさないように足場にも気を使っているので写りは最悪ですが、こういうのを画像処理したりして頑張って読んでいます。五十一番の像は背面が平らで何かにくっつけてあった跡みたいなのがありますね。
 
 

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本堂近くの大師像。下の鉢に享保の文字がある。

 この写真はいろは大師とは関係なくて、本堂近くにあったものを写しました。たぶんもともとは下の鉢に水を張って手水にしていたのか、あるいはお大師様に水をかけて供養するためのものだったかもしれません。今は水は入っていませんでした。鉢の脇に「享保…」と刻まれているので江戸時代中期のものですね。これもなかなか古くて貴重なものなので、大心講で指定されたものじゃないですが、心の番外としておきたいと思います^^;

弘法大師 空海 密教