二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

平井・安養寺

 平井の安養寺は、南葛「いろは大師」第七十四、八十一、八十二番であり、南葛「南回り」の第七十番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第七十四番(仲多度郡筆岡村・甲山寺の写)
いろは大師:第八十一番(綾歌郡松山村・白峰寺の写)
いろは大師:第八十二番(香川郡下笠居村・根香寺の写)

南回り:第七十番

【札所名】安養寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 江戸川区中平井町
現在の地名 江戸川区平井6-53-1

【御詠歌(いろは大師74)】本尊薬師如来
十二神 みかたにもてる いくさには おのれとこゝろ かぶとやまかな

【御詠歌(いろは大師81)】本尊千手観音
しもさむく つゆしろたへの てらのうち みなをとなふる のりのこゑごゑ

【御詠歌(いろは大師82)】本尊千手観音
よひのまの たへふるしもの きへぬれば あとこそかねの ごんぎやうのこゑ

【いろは大師、次の札所】
(七十四番から)同町内八十二番へ一丁
(八十二番から)同町内八十一番へ二丁七分
(八十一番から)五十一番平井聖天・灯明寺へ八丁
# この順路は大心講編纂の『御詠歌集』(昭和54年版)によります。安養寺境内にある標石には(74→)82→81→69と進む道順と里程が記されています。現在は74、82、81は同じ場所にあります。詳しくは本文にて。

【南回り、次の札所】
第七十一番、平井聖天・燈明寺(灯明寺)



 

平井・安養寺の門前より三つの大師堂

 平井の安養寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の七十四番、八十一番、八十二番札所です。また、同名の霊場巡り南葛八十八ヶ所南回りの七十番でもあります。境内の大師堂等はすべていろは大師のもので、南回りの痕跡はみつけられませんでした。

 現在、大師堂は境内に入ってすぐに三つ並んで建っていますが、大心講の『御詠歌集』によれば、七十四から八十二へ一丁(約109m)、八十二から八十一へ二丁七分(約300m)とあり、もともと安養寺境内にあったのは七十四番で、ほかは近くの路辺もしくは墓地などにあったのではないかと思われます。

南葛いろは大師第七十四番大師像ともう一体の大師像

 七十四番のお堂には大師像が二体ありあす。後ろにあるのが番号の台座にのっていて、いろは大師のものです。手前の大師像はなんのために作られた像なのかはちょっとわかりません。向かって右奥の小さな厨子におさめられているのは、四国七十四番甲山寺のご本尊様で薬師如来だと思います(よく見ると手に薬鉢を持ってる)。

手前の大師像の前にたてかけられた御詠歌の石版

 手前の大師像の前には御詠歌が刻まれた石版が立て掛けられていました。霊場巡りの札所に奉納する扁額には、四国の同じ番号のお寺の御詠歌を書く事が多いんですが、この石版には「ありがたや おがむこゝろは あんようじ しゆごをたのめよ だいしまします」と刻まれています。このお寺の名前「あんようじ」が詠みこまれているので当寺オリジナルの御詠歌っぽいですね。ご住職か信徒さんのどなたかの作かもしれないです。
 

南葛いろは大師第八十二番大師像

 番号が前後しますが、昔の順路ならば次が八十二番。堂内には大師像が一体、八十二の台座に安置されています。右の小さな厨子の中には四国の八十二番・根香寺のご本尊様である千手観音が納められています。

 こちらは番号の台座の下にもうひとつ台座があって、前面に「上平井大師講/第八十二番」の文字とともに講のメンバーと思われる方々の名前がずらっと刻まれています。
 

南葛いろは大師第八十一番大師像

 そしてこちらがいろは大師八十一番の大師像です。八十二番と同様、一番下の台座の前面に「上平井大師講/八十二番/(以下講メンバーの方々のお名前)」が刻まれています。講の名前は同じみたいですが、刻まれている個人名は別みたいですね。大師像のデザインも違うようです。
 

三つの札所番号が刻まれている石碑(大正15年建立とある)

 お堂の外には石碑もありました。この板状の石碑には三つの札所番号があり、遍照講という講名も刻まれています。大正十五年建立ともありますが、石碑そのものの建立年なのか、お堂ができたのが15年だと言ってるのか、そこらへんはよくわかりません。いろは大師の開創そのものは大正14年ですし、番号の台座には14年と刻まれてる事が多いです(すべてを見られたわけじゃないのですが)。

南葛新四国八十八ヶ所発起人
第八十一番
第七十四番 霊場
第八十二番
大正十五年十一月建立

遍照講世話人
(福島さん以下個人名たくさん)
講元 並木佐平
副講元 鈴木啓次郎

 

塔状の石碑。標石として建てられたもののようだ。

 もうひとつ、石塔状の碑もありました。こちらは存在に気づいてなくて、お堂の写真のわきに写ってたのをトリミングしたため、変な写真になっててすみません。家から遠いもので、そうそう簡単には撮り直しにいけません。この標石はどうやら大正14年の開創当時の道順を示したもののようです。

南葛新四国
八十八ヶ所

 ↑ 第六十九番へ六丁
第八十一番之霊所
 ↓ 第八十二番へ二丁半

 こんな感じに刻まれていて、番号から考えていろは大師の道案内には違いないんですが、八十一番の前が六十九番と書いてあるのですよね(七十四番じゃなくて!)。

 六十九番は東墨田の万福寺です。安養寺からだと十丁以上あると思います。ということは、八十一番は安養寺よりも500mくらい北のほうにあったってことでしょうね。そして、安養寺と八十一番の間に八十二番があったわけです。

 なぜそれが撤去されて安養寺にあるかというと、おそらく荒川放水路の工事によるものでしょう。

安養寺と万福寺の位置関係(地図)

 たぶん、開創当時は七十四番安養寺から二丁ばかり北の路辺に八十二番、さらに三丁ばかり北の路辺に八十一番があって、その次が万福寺の六十九番だったんだろうと思います。もとの場所はたぶん荒川河川敷きのどこかでしょう。

今昔マップ・旧中平井町付近、大正時代の地図
↑ここで昔の地図も見られます。お寺の名前などは表示されないのでgoogle地図と突き合わせて考えないといけないんですけどねー。

弘法大師 空海 密教