正養寺
平井・正養寺は南葛「いろは大師」の第七十六番・第五十三番であり、南葛「南回り」の第七十二番でもあります。大師像はいろは大師のもので、南回り関連のものは残っていません。
【札所番号】
いろは大師:第七十六番(仲多度郡滝川村大字金倉・金倉寺の写)
いろは大師:第五十三番(温泉郡和気村・円明寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。金倉寺は滝ではなく"竜"川村かと思います。
南回り:第七十二番
【札所名】正養寺(真言宗豊山派)
【所在地】
旧地名 | 江戸川区逆井町 |
現在の地名 | 江戸川区平井2-5-18 |
【御詠歌(いろは大師76)】本尊薬師如来
まことにも しんぶつそうを ひらくれば しんごんかじの ふしぎなりけり
【御詠歌(いろは大師53)】本尊阿弥陀如来
らいかうの みだのひかりの ゑんみやうじ てりそふかげは よなよなのつき
【いろは大師、次の札所】
(七十六番から)同町内五十三番へ一丁半
(五十三番から)七十四番安養寺へ十八丁半
【南回り、次の札所】
第七十三番、小松川神社内・西光寺
お寺は似た名前や同名が多いです。こちらは正養寺で、いろは大師で言うと次の札所が安養寺です。ちょっと頭が混乱しますね。
さて、正養寺は南葛八十八ヶ所「いろは大師」の七十六番、五十三番です。また、同名の霊場めぐりである「南回り」の七十二番でもあります。当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所に注目しています。名前が同じため、大正14年開創のものを「南葛いろは大師」、明治43年開創のものを「南葛南回り」と呼び分けています。
大師堂内の大師像はそれぞれ七十六、五十三の番号がついた台座に安置されていますのでいろは大師のものだとわかります。二つの大師像の間に小さな厨子があります。中にあるのは阿弥陀様か薬師如来のどちらかじゃないかと想像しますが、前に小さな大師像がもうひとつ安置されているので持物を確認できませんでした。
南回りは大師像や大師堂を積極的に造立しなかったようなのでここにもありません。運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ扁額が残っている場合もありますがみつかりませんでした。正養寺は今より東にあったようですが、荒川放水路の開削工事で大正2年にこの地に移転したということです。また第二次大戦中に戦災で寺が焼けてしまったということなので、移転時か、戦争当時に木製の扁額などは失われたのだと思います
いろは大師の開創は大正14年です。その時点では寺はすでに今の場所にあったと思われます。台座にくらべて像が新しいので、ひょっとすると戦後に作り直しているかもしれませんが確かなことはわかりません。いろは大師は唱和末期まで送り大師などの行事が行われており、比較的新しい霊場めぐりです。現在はほとんど活動していないようです。
ところで、いろは大師を開創した大心講の『御詠歌集』(昭和54年版)によると、七十六番から五十三番へ、一丁半(160mくらい)の距離があります。現在はふたつ並んで同じ堂内にありますが、昔はどちらかが近くの路辺や墓地などにあったかもしれません。
第五十三番の台座の向かって左面が一部のみ読めました。そっとスマホを差し込んだりして撮影しています。
主任 長岡二…(かすれ)
世話人
野口…(かすれ)
野口…(かすれ)
安倍…(かすれ)
恩田…(かすれ)
(以下物のかげになって読めず)
番号の台座は、左右と背面に何か刻まれている事が多いです。書かれているのは「納人(講名やメンバーの名前)」「世話人(同)」「発起人(同)」「造立年(だいたい大正十四年○月○日)」ですが、必ずあるわけでもなさそうです。
納人は、おそらくお金を出して大師像を奉納した人で、講だったり個人だったりします。講名や個人の住所などを見ると、かならずしも近くの人がお金を出してるわけでもなさそうです。世話人はおそらく近くの人なんだと思います。発起人は裏に書いてあることが多いみたいなんですが、裏側は見られないことが多いです。