下小松町、謎の番外(厄除合体大師)
南葛「いろは大師」の札所ですが、大心講の『御詠歌集』では「番外」とされているのにお堂の中には第七十番と刻まれた大師像があります。
【札所番号】
いろは大師:番外
【札所名】不明
【所在地】
旧地名 | 葛飾区下小松町 |
現在の地名 | 記載なし |
(東京都葛飾区新小岩3-12 福島商店さんの近くにあります)
【御詠歌(いろは大師)】
記載なし
【いろは大師、次の札所】
八十七番東福院へ二十一丁半
# 東福院まで実際には六丁四分くらいしかない。
謎の番外は、南葛八十八ヶ所いろは大師の札所です。この札所は『御詠歌集』の道順里程(わたしは「順路」と呼んでる)に載っていて、旧町名で「葛飾区下小松町」とあります。ひとつ前の二十二番吹上から十丁、次の八十七番東福寺へ二十一丁半とあります。書いてあるのはそれだけなので、寺なのか、路辺なのか、個人宅なのかもわからず、最初はなんだろうと首をひねっていました。
『御詠歌集』には、札所のリストがもうひとつあって、そっちは札所のおおまかな住所+御詠歌のセット(わたしは「歌」と略してる)なんですが、こちらは現在使われている地名で書かれているため、下小松町という住所表記はありません。
そこで、下小松町が現在のどこにあたるのかを古い地図で調べると、新小岩駅の南側で平和橋通りの東、小松川境川親水公園の西あたり。町名でいうと新小岩二丁目、三丁目、四丁目あたりっぽいのですよね(正確な境界線がわからないので大ざっぱにそこらへんということですけど)。
それだと「歌」のほうで「七十番福島地内」が新小岩三丁目なので一致しそうです。
この福島地内は、福島商店というお酒やお米を売るお店の敷地内です。今も商店があるし、七十番の大師像がちゃんとあります。今昔マップで福島商店の場所にマーカーを置いてみると、昔の町名では下小松町にあたりそうです。
しかし、ここにあるのはあくまで七十番なんですよね。番外じゃなくて。
じゃあ下小松町の「番外」とは一体なんなのか。
実は「七十番」は二つあります。その件は「福島地内」と「浄心寺」にも書きましたが、『御詠歌集』では浄心寺のほうを「前札七十番」と呼んでいます。正確な事情はよくわからないのですが、七十番を移転しようとして、結局は両方とも残ってしまった、ということなんじゃないかと思います。どちらを残すかで揺れて、福島家の大師像を「番外」としていた時期があったんじゃないでしょうか。
ただ、謎は残ります。「順路」によれば次の八十七番東福院まで二十一丁半(2.34kmくらい)と書いてあるんですが、東福院はそんな遠くないんですよ。せいぜい六丁四分(700mくらい)しかないです。たんなる書き間違い(または誤植)でしょうか。それとも福島商店が昔は別の場所にあったのかも…?
古い巡拝案内図には「厄除合体大師」とある 2022年8月追記
本文では「福島地内の70番と、下小松町の番外が一致するようだが、次の札所87番までの距離が、福島地内からの距離と合わない」と書きました。これについて、新たな手がかりがみつかりました。
これもコメント欄などで情報を教えてくださる研究家の小川さんから教えてもらったのですが、葛飾区立中央図書館に『南葛八十八ヶ所御大師順路地図』という、いろは大師の古い巡拝案内図があるというんですね。19番前西の札所を今でもお世話なさっているTさんという方の家に伝わっていたものだそうです。
もっと大きな写真を見たい場合は→ここをクリックまたはタップ←してください。別のウィンドウなりタブなりで大きな画像が開くと思います。赤い文字はわたしが後から書き込んだものです。もとは川などに色がついているんですが、図書館では白黒コピーしかできませんでした。それをさらに写真を撮ったので、文字などぼけてて読みにくいかもしれません。オリジナルも不明瞭な部分はありますが、此の写真よりはちゃんと読める感じです。
地図には発行年月日がないのでいつごろのものなのかはわかりませんが、おそらく戦前のものだと思います。
- いろは大師が88ヶ所そろったのは大正14年(1925年)
- 新中川=中川放水路がない→1963年3月より前
- 陸前浜街道(国道6号の前身)がくねくね曲がりながら小菅あたりで荒川放水路に当たる→戦前(戦後の地図だと6号がまっすぐになって四つ木橋につながってる)
……ということで、たぶん昭和初期の地図じゃないかと思うんですよね。
前置きが長くなりましたが、この地図を見ると「謎の番外」にあたる場所には「厄除合体大師」と書いてあります。
この合体大師ですが、わたしは不勉強で知らなかったんですけど、鯖大師、秘鍵大師、荒行虫除大師と同じように、弘法大師の伝説にそういうのがあるらしいです。
本尊・合体大師像
秘仏で、お姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。古文書によると、空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。
出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。学者らの話によると「恐らく僧形八幡像だろう。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想=神仏同体説=に基づくもので国宝に東寺、薬師寺、東大寺に同じような物があり、調査すれば国宝級の物だろう」という。
上記は京都の乙訓寺(おとくにでら)の伝説で、首から上は八幡大菩薩、首から下は弘法大師という像なんだそうです。おそらく、下小松町の番外は、乙訓寺の合体大師の写しだったんだと思われます。といっても乙訓寺の像は最近まで秘仏だったそうなので、想像で作ったに違いありませんが。
では、合体大師=現在の70番なのでしょうか? 残念ながらそれはわかりません。とにかく下小松町の番外は、戦前まで「厄除合体大師」だったようです。