二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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上品寺

 東新小岩の上品寺は南葛「いろは大師」の二十九番で、同「南回り」の六十九番です。「四箇領」の二十番でもあります。このお寺には大きな閻魔大王像があることでも有名です。



【札所番号】
いろは大師:第二十九番(長岡郡国分寺村・国分寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。寺は国分寺ですが、村は国府村と書くようです。

南回り:第六十八番

四箇領:第二十番

【札所名】上品寺(新義真言宗

【所在地】

旧地名 葛飾区上平井
現在の地名 葛飾東新小岩7-8-2

【御詠歌(いろは大師29)】本尊千手観音
くにをわけ たからをつみて たつてらの すゑのよまでの りやくのこせり

【いろは大師、次の札所】
二十二番吹上へ六丁半

【南回り、次の札所】
六十九番、西新小岩・東光寺



 

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上品寺の大師堂

 

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南葛いろは大師第二十九番大師像

 上品寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の二十九番で、同名の霊場めぐりである南回りの六十八番でもあります。いろは大師(大正14年開創)と南回り(明治43年開創)は起源も順路も違うまったく別の霊場めぐりです。当ブログはこの二系統の南葛八十八ヶ所の札所に注目しています。またこのお寺は四箇領の二十番でもあります。

 いろは大師、南回り、四箇領と三系統の霊場巡りの札所になっているわけですが、大師堂内にある像は第二十九番の台座に安置されているのでいろは大師のものだとわかります。

 堂内奥の壁に小さな扉があるのは、おそらく四国二十九番国分寺のご本尊様を安置するための厨子になっているのだと思います。

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番号の台座の向かって右脇

 番号の台座の左右の脇には文字が刻まれています。向かって左脇は壁と近すぎて内容までは読めませんでした。右脇(上の写真)には納人の名前が刻まれています。文字はスマホを差し込んで撮影して確認していますが、堂内が暗いこともあり人名は不明瞭でよくわかりません。しかし東京市とあることから、明治中期から戦前までというおおざっぱな造立年代はわかります。

納人 東京市
小嶋惣次郎?
玄碩?
山口寅吉?
成瀬田之助

 

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四箇領の標石

 お寺の門前に、小さく白い石柱がありますが、これは四箇領の標石です。四箇領は江戸時代からある八十八ヶ所霊場で、上品寺は二十番札所です。向かって左面に、左向きの指さしマークと二十番への文字が見えます。右面には二十二番へと刻まれているようです。おそらく昔は順路となっている道端に立てられていたものだと思います。四箇領の標石は、都内だともう道端からは撤去されてお寺の門前に残されていたりするのですが、三郷市内で何ヶ所かまだ路辺に残されているのをみつけています。
www.chinjuh.mydns.jp
 わたしがやってる(今ほとんど放置ですが)別のブログの記事です。
 
 

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上品寺のパンプレット(エンマ大王の由来)

 ところで、上品寺といえば閻魔堂(エンマ堂)です。高さ2メートルの大きな閻魔大王座像があります。ぱっと見では新しいもののように見えますが、昭和中期に修復されたからであって、製造手法から室町時代初期の作だと考えられるそうです。ただし作者名などの銘文がないため文化財には指定されていないとのこと。

 かつては江戸十六エンマのひとつとされていましたが、安政二年の大地震でエンマ堂が崩落し、以降は本堂の片隅に安置されていたとのこと。現在のエンマ堂が出来たのは昭和48年だということです。

 伝説によれば、こちらのエンマ様は洪水で中川の上流から流れてきたものを村人が拾い上げて上品寺に奉納したと伝えられているそうです。三郷市葛飾区、足立区あたりには洪水にまつわる伝説が多数あります。どこそこの神社の御身体はうちの村から洪水で流れて行ったものだ、というような話が多いのですが、上品寺のように流れ着いたものの話もいくつかあります。

弘法大師 空海 密教