二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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東新小岩・正福寺

 東新小岩・正福寺は南葛「いろは大師」の二十三番、番外奥の院であり、同「南回り」の七十七番札所です。「四箇領」の二十二番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第二十三番(海辺郡日和佐町・薬王寺の写)
いろは大師:番外・奥の院
#( )内は『御詠歌集』に従っています。海辺郡ではなく海部郡でしょうか。

南回り:第七十七番

四箇領:二十二番

【札所名】正福寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾上小松町
現在の地名 葛飾東新小岩4-8-4

【御詠歌(いろは大師23)】本尊薬師如来
みなひとの やみぬるとしの やくわうじ るりのくすりを あたへましませ

【いろは大師、次の札所】
二十八番東光寺へ十二丁半

【南回り、次の札所】
七十八番、鹿骨・密蔵院



 

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東新小岩正福寺、二つの大師堂

 東新小岩の正福寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の二十三番ならびに番外奥の院であり、南回りの七十七番でもあります。また四箇領の二十二番でもあります。境内に大師堂がふたつ並んで建っています。両方ともいろは大師の札所だと思われます。「いろは大師」「南回り」という呼び分けについては目次のページをご覧ください。

 南回りと四箇領は大師像などの造立を行わないスタイルだったようなので、名残というのは基本ありません。運がいいと南回りには札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額が残っている場合もあります。四箇領は標石などの石碑がある場合もありますが、ここではみつかりませんでした。#追記:南回りにも一部の札所には固有の大師堂があります。

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南葛いろは大師番外奥の院の大師像
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奥の院の像の台座の向かって左脇面

 大師堂のうち、本堂に近いほうは「奥の院」と呼ばれているいろは大師の番外札所のようです。じつはこの番外、大心講の『御詠歌集』には載っていません。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』には、二十三番と同じく正福寺にあると書かれています。

 奥の院の像は高野山と刻まれた台座に安置されています。この台座の左脇面を見ると(不明瞭で見づらいとは思いますが)

大正十三
甲子年
願主
釈大雲?
(以下1〜2行かすれている)

と書かれています。

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南葛いろは大師第二十三番大師像
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二十三番の台座、向かって右面
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二十三番の台座、向かって左面
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二十三番の台座背面、斜め上から写して画像処理で歪みをとったもの

 奥の院の隣りのお堂には、第二十三番の台座に安置された大師像があります。堂内に余裕があったため、台座の左右脇面と背面をどうにか写せました。人名は読み間違いがあるかもしれません。

【向かって右面】
納人 大字曲金
 羽二塚兼行?
 同 礼人?
 同 鉄五郎
 念仏講中
大正十三年十一月
       十日

【向かって左面】
主任   三田■助
世話人 同 甲八?
     横川定次郎?
     橋本福造
     牧野福太郎
     奈良橋■■
     三田三吉
     牧野栄吉
     橋本要造?
     三田■■郎 

【背面(たぶん左面の続き)】
牧野喜平次
三田綱吉
同 ■助
■野■郎
加藤■■
渋谷卯之助
■…
同 吉■郎
牧野■助
■佐■…
■…
■…
三田■…
加藤庄吉?

発起者
 当山住職
  ■…
  宇田川万太郎?

 人名は石が欠けてかすれたり、写真がピンボケだったりすると、類推がきかないので間違いがあるかもしれません。特に背面の当山住職以降が写真ではほぼ潰れてしまっています。ただ、最後の行は文字の形からして宇田川万太郎氏のような気がします。この方が南葛八十八ヶ所いろは大師を開創した恵心和尚だそうです。

 いろは大師は大正14年の開創ですが、いっぺんに八十八ヶ所作ったのではなく、大正12年から段階的に札所を作っていたとされています。大師像はどの時点で作ったんだろうと思ってたのですが、このお寺の像はどちらも大正13年ですから、像も段階的に増やしていったということなんだと思います。


 正福寺には二つの地蔵堂があったり、関東大震災の被害を記録した石碑があったりと、見どころがけっこうあるのですが、地蔵堂は写真の写りがあまりよくなかったので、いつかまたお参りに行けたらいろいろと追記しようと思います。

弘法大師 空海 密教