二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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地蔵堂(森市地蔵)

 南葛「いろは大師」の十二番は奥戸二丁目の森市地蔵堂と並んで建っています。森市は人々に愛された僧侶の名前で、この地の繁栄をねがって即身仏になったと伝えられています。



【札所番号】
いろは大師:第十二番(名西郡下分上山村大字左右内・焼山寺の写)

【札所名】地蔵堂(森市地蔵・入定塚)

【所在地】

旧地名 葛飾区本奥戸
現在の地名 葛飾奥戸2-1-8

【御詠歌(いろは大師12)】本尊虚空蔵菩薩
のちのよを おもへばくぎやう せうさんじ しでやさんずの なんじよありとも

【いろは大師、次の札所】
二十三番正福寺へ十二丁



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今昔マップより奥戸の地図。左側は昭和の中ごろの地図、

 ここは南葛八十八ヶ所いろは大師の十二番です。大心講『御詠歌集』には旧・葛飾区本奥戸町(現・奥戸二丁目)で、次の札・所正福寺へ十二丁、前の札所・観音堂から四丁とあります。

 観音堂というのは4〜500mくらい離れたところにある墓地らしいんですが、そこには地蔵堂はあっても観音堂がなく、いろは大師の像もないためわたしは首を捻っています。ただ、仮にそこを札所として、そこからの距離、正福寺への距離などを考えると、場所は森永乳業があるあたりかなあと思うのですよね。

 そういえばこのあたりに、森市という旅の僧侶が即身仏になったとされる入定塚があって、昔見に行ったことがあるんですが、たしかそこにお堂があったような気がすると思い行ってみたら当たりでした。

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森市地蔵堂遠景
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二つ並んだお堂、手前が大師堂
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南葛いろは大師第十二番大師像
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森市入定塚と南葛大師(いろは大師)の由来を説明する看板

 森永乳業の北の川沿いにお堂がふたつならんでいます。向かって左側のお堂は森市地蔵堂です。現地の解説板によると、聖徳太子像の後ろに地蔵尊が安置されているとのこと。のぞいてみましたが、奉納された無数の袈裟などでぐるぐる巻になっていて何の像かもよくわかりませんでした^-^

 向かって右のお堂が大師堂です。中には第十二番の台座に安置された大師像があり、いろは大師のものだとわかります。

 恵心和尚(宇田川万太郎氏)が開創した南葛八十八ヶ所(当ブログでは「いろは大師」と呼んでます)は大正14年の開創です。各札所には大師堂と大師像があります。昭和61年までは大心講が霊場をめぐる行事を行っていたそうです。その後は後継者不足などでほぼ活動していないようです。

 各地に残された霊場は、お寺にあるならそのお寺で、路辺にあるなら地元の有志がお世話しているようです。あくまで気持ちでしていることなので、もう長い事誰も訪れていないのだろうなと思うような場所もあります。

 こちらは奉賛会があり、入定塚とともに地元のみなさんが手厚くお世話されています。

 先にもかきましたが、森市というのは旅の僧侶の名前です。解説板では六部とされています。六部というのは法華経を六十六回写経して、六十六ヶ所の霊場に納めて回る行者の事なのですが、寺を持たず諸国を行脚しているような旅の托鉢僧などのことも六部と呼んだりします。昔はそういう流れの僧侶がけっこういたらしいです。
 森市がどういう人だったかは、もうわからないのですが、どこからか流れてきて、この地の人に慕われ、ここに骨をうずめようと思ったんでしょう。親切にしてくれた村人の幸せやこの地の繁栄を願って、自ら穴に埋められて、飲まず食わずで読経を続けて即身仏になったと言い伝えられているそうです。

弘法大師 空海 密教