観音堂(奥戸二丁目墓地内)
大心講の『御詠歌集』では、南葛「いろは大師」の第四番は旧町名で本奥戸町の観音堂とされています。しかし、現在はそれらしいお堂がなく、いくつかの本では奥戸二丁目の墓地内としています。
【札所番号】
いろは大師:第四番(板野郡松坂村大字黒谷・大日寺の写)
【札所名】観音堂
【所在地】
旧地名 | 葛飾区本奥戸町 |
現在の地名 | 葛飾区奥戸二丁目 |
# 上記所在地は大心講『御詠歌集』による。
# 下町タイムス社『江戸・東京札所事典』には奥戸2-32-9とある。
# 葛飾区立中央図書館蔵『新四国八十八ケ所霊場地絵地図』には奥戸2-32-19とある。(こっちのほうが正確な位置を示す)
【御詠歌(いろは大師4)】本尊大日如来
ながむれば つきしろたへの よはなれや たゞくろだにゝ すみぞめのそで
【いろは大師、次の札所】
十二番地蔵堂(森市入定塚)へ四丁
【追記】いろは大師第4番は奥戸2-32-19の墓地内でどうやら正解のようです。観音堂という名前なのにお堂がないのは戦災でやけたからとのこと。詳しい情報は本文の終わりに追記しました。追記ここまで。2022年7月。
南葛八十八ヶ所いろは大師の四番は旧地名で葛飾区本奥戸町、現在の地名で奥戸二丁目のどこかだと大心講の『御詠歌集』に書いてあります。本奥戸町というのは、たぶん奥戸本町のことだと思います。今はもうない地名なのですが、だいたい奥戸一丁目〜二丁目と重なるようです。
前の札所である専念寺から七丁八間(800m弱)、次の札所である森市入定塚の地蔵堂まで四丁(450m弱)だとすると、奥戸二丁目で、しかも奥戸街道からそう離れていない場所のような気がします。
その条件を満たす場所として、奥戸2-32-9に墓地がありまして、ネット情報でも、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』でも、ここを四番としています。
たしかに大師像はあったんですが、こちらのは木製の小さなお大師様で、恵心和尚と大心講が作った石の大師像とは違うものでした。そもそも札所は「観音堂」のはずなんですが、ここには観音堂らしいものは現在見当たりません。
しかしここ以外となると、もう手がかりがありません。地元に昔からいる方に聞いてみないと。もしこのブログを見に来られる方で、奥戸に昔から住んでいる方がいらっしゃいましたら、このあたりに「観音堂」と呼ばれる場所はなかったでしょうか。そしてそこで、第四番と刻まれた台座に安置された大師像を見ませんでしたか?
何かご記憶がございましたら、ぜひコメント欄に思い出をお寄せください。下のほうへスクロールすると「コメントを書く」というボタンがあると思います。
これは大師堂内に奉納されたドングリです。小さな文字で経文とともに「南葛八十八ヶ所第四番墓地内」と刻まれています。最初これを見て、地元の方がここを四番だとおっしゃるなら、きっと四番なんだなと納得しかけたのですが、同じドングリがめぼしい札所のあちこちに奉納されているのに気づきました。
そうなると関係者というわけでもなくて、わたしと同じようにネットや本を見て巡礼している方なんだろうとも思います。
でも、行く先々でドングリに刻まれた小さな文字を見て、その根気と信仰心に頭が下がる思いです。わたしも頑張って歩こうと思いました。
追記 2022年7月25日
コメント欄でいただいた情報で、わたしはまだ典拠をみつけていないのですが追記しておきます。
- いろは大師の四番観音堂は
西蔵院の観音堂だった。 - 奥戸・
西蔵寺は廃寺となり奥戸・妙厳寺に合寺[いつ?] - 墓地はその後ものこり、観音堂そのものは火事で消失。[いつ?]
- いろは大師の石像は現存せず、墓地内に木造の大師像がある。
…ということで、場所は「奥戸二丁目墓地内」で合ってる、ということでいい、のかな?
追記 2022年7月26日 ↑の典拠
葛飾区立中央図書館蔵『妙厳寺誌』p.178に、金剛山正保寺西光院についての記述がある。
- 本奥戸村・西光院は『武蔵国風土記稿』にも見え、本尊は阿弥陀如来、無住。蜆観音を祀る観音堂があった、とのこと。蜆観音の由来は不明とある。
- 明治2年、排仏毀釈などの影響を受けて廃寺。寺の場所は「現在の観音堂墓地あたり」。本尊像や什物、過去帳等は妙厳寺に収められる。
- 観音堂は戦災で焼失。
以上の情報から考えて、奥戸2-32-19にある墓地が西光院の跡地であり、観音堂ということで間違いなさそうです。札所名が観音堂なのは戦災で焼けてしまったから。開創時作られた石の大師像がない件は詳細は不明ですが、やはり戦災によるものかもしれません。