二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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何に属するかわからない札所番号(おそらく東葛西領八十八ヶ所)

 おはようございます。寝て起きたら購読者が30人をこえていてちょっと驚いています。何かで紹介してもらえたのでしょうが…一体何が起こったんでしょう(汗)

 わたしが作るコンテンツは、だいたい「あれ何だっけ?」「こういうのをみつけたけど、一体なんだろう?」みたいな思いつきを検索した時にヒットすると嬉しい感じになっていて、更新を端から読んでもあまり面白くないかもしれないですけど、とりあえずよろしくおねがいします!


 さて、今回は二系統の南葛をまわっているうちに見つけた未知の霊場めぐりについてメモ的にまとめておきます。特にことわりがない場合は弘法大師霊場です。


▲第56番 上一色・正蔵院:この寺が西新井組(四箇領の別名)の二十三番であることと、「別組 第五十六番」である事が刻まれた石碑がある。
 

▲第61番 細田・東覚寺(東学寺):御詠歌の扁額。
 

▲第74番 柴又・医王寺:江戸時代(寛政四年)の石碑に四国第七四番とある。西国第九番(これは観音霊場)の文字も見える。
 

▲第76番 葛飾区鎌倉・浄光院:御詠歌の扁額。


▲第78番 北小岩・十念寺:御詠歌の扁額。

 詳しくはリンク先を読んでみてください。

 これらは南葛のどちらの系統でもなく、四箇領、荒川辺、荒綾にも属しません。

 61番、76番、78番は、あきらかに同じ形式の扁額なので同じ組(同じ霊場巡り)です。

 56番と74番は仲間かどうかわかりません。

 しかし、こうして地図に配置してみると、比較的近い番号で固まっているので、すべてが同じ組の札所だったとしても不思議ないなあと思っています。

 もしすべてが同じ組であるとしたら、医王寺の石碑は古いので、江戸時代からある霊場めぐりかもしれないですね。

 来年は南回り関連で江戸川区に足をのばす予定です。新たな手がかりが発見できるかもしれません?!

上記を書いたあとに見つけたものを下に追加。


▲第35番 東小松川・宝積院:南無興教大師の石柱
 向かって右面に漢文が書いてあり、苔むして読めないと最初は諦めていたのですが、写真にとって画像処理などして読んだ結果「寛政四歳」「六百五十年」の文字が読めたため、他の石碑と同じシリーズだと確認できました。


▲第11番 江戸川・蓮華寺:柴又医王寺にあるのと同じく寛政四年と刻まれている。また西国十六番(これは観音霊場)の文字も見える。少なくとも医王寺のとは同じシリーズだと思われる。/その後、松江東善寺で同様の石柱を見つけました。

さらに追加


▲第31番 松江・東善寺:南無興教大師の石柱
 脇と裏面に「四国第三十一番/土州五台山写/東善寺」「奉為六百五十遠忌報恩謝徳也」「寛政四壬子」の文字があります。これによって、柴又医王寺、江戸川蓮華寺、東小松川宝積寺、松江東善寺の石柱がすべて同じ目的で作られたものだとわかりました。
 医王寺と蓮華寺が四国と西国の番号を刻んでいて、宝積寺と東善寺が四国だけなのは、四国88ヶ所に対して、西国は33ヶ所しかないからだと思われます。四国は南から北へ、西国は北から南へ番号がふられていたに違い有りません。

2021年8月25日追記

 下記は葛飾水元・遍照院の大師堂にある扁額です。こちらには以前から古い扁額があるのを知っていましたが、資材の影になっているのと、スマホでは上手くうつらなかったのとで内容までは確認できませんでした。「ひとり案内」に遍照院が出てくるので、今回は望遠のきくデジカメを持参して写したところ、65番伊豫国三角寺の御詠歌だということがわかりました。遍照院は二系統どちらの南葛八十八ヶ所にも入っていないのでここに特記します。

壁際にある四角い板に御詠歌が刻まれています
望遠で写して読みやすいように歪みをとったもの
読み取れる部分を図解

四国霊(場第六十五番)
伊豫国三(角寺写)
   (遍照院)
おそろしや
 三ツのか(どにも)
  いるな(らば)
こゝろをまろく
 み■を
  ■ん■■

()内は薄れて読みにくいか、物陰にあるものの書いてある事は類推できる部分。
■は消えてしまい何が書いてあるのかわからない部分です。

 伊豫国三角寺の御詠歌は「おそろしや三つの角にも入るならば心をまろく慈悲をねんぜよ」なのですが、この扁額では慈悲の部分が違う言葉になっているようです(たとえば「みち」とか)。

 流れるようなくずし字の書体や、特徴的な扁額の形。奉納した日付が講の名前がないことなど、細田東覚寺、葛飾区鎌倉浄光寺、北小岩十念寺にある扁額と同じシリーズであることがわかります。

2021.10.09追加


▲第28番 一之江・妙音寺の石柱:これとおぼ同じ形式のものが一之江・薬王寺にもある。造立年や興教大師遠忌などの文字は刻まれていない。

四国第廿八番
大日寺
妙音寺

2021.10.11追加



▲第27番 一之江・薬王寺の扁額と石柱:石柱はすぐ近くにある一之江・妙音寺門前にあるのと同じ形式です。

2021.11.05追加


▲第07番 東葛西・東善寺の石柱

(正面)
四国第七番
阿波十楽寺
東善寺
 
(向かって右面)
西国二十一番うつし
 
(向かって左面)
ちゝぶ十八番うつし

2021.11.09日追加



第01番:東葛西・昇覚寺の石柱とその図解。脇面が秩父音霊場写の案内になっている。この寺には天保五年(1834年)の石柱にも「四国第一番」の文字がある。

(Aの面)

四国
第一番
霊山寺写昇覚(以下埋まっている)

(Bの面)

秩父十一面尊像安置

(Cの面)
不許葷酒入山門


第03番:東葛西・昇覚寺内にある石柱。神明寺という別の寺にあったものを移設したようだ。神明寺については『江戸川区史』にも掲載されていないのでどこにあったかは不明。無住の寺か念仏堂のようなものだったかもしれないし、昭和51年より前に廃寺になったのかもしれない。

यु 四国
第三番
金泉寺写 神明寺


第02番:中葛西・正応寺の石柱。文化八辛未歳(1811年)とある。同様の石柱が一之江の妙音寺、薬王寺東葛西の東善寺、昇覚寺にもあるが造立年があるのは正応寺のみ。

(正面)
हाँ 南無遍照金剛

(向かって右面)
四国第二番
極楽寺
潮林山正応寺

(向かって左面)
文化八辛未歳二月吉辰日


第08番:北葛西・竜光寺の石碑。反対面が葛西三十三所の案内。

(向かって右)
स 葛西三十三所 第十八番明光山竜光寺

(正面)
興教大師六百五拾遠諱

(向かって左)
यु 四国第八番 熊谷寺

(裏面)
寛政四壬子歳 十二月吉辰
当山 尊鏡(?)

2021年12月14日追記


▲柴又・真勝院の御詠歌の扁額(大師堂の軒下に掲げられている)

四国霊場第七十五番
讃岐国善通寺
    真勝院

われすまは
 よもきへはてし
  せんすうし
ふかきちかひの
 のりのとも
     しひ


▲真勝院大師堂と堂内の大師像

 ずいぶん前に写したものなんですが、ふと写真を見直したら扁額があったので追記します。このお寺は「いろは大師」でも「南回り」でもなくて、四箇領八十八ヶ所の28番であることはわかっています。しかし扁額の番号は「75番」です。少なくとも扁額は四箇領のものではありません。十念寺、浄光院、東覚寺の扁額と形式が共通しているので同じシリーズでしょう。医王寺と番号が前後するのが少々謎ではありますが。堂内の大師像は手持ちの写真に台座が写ってなかったんですが、たぶん番号がついていなかったんだと思います。

2022.10.15.追記

 奥戸妙厳寺の門前に四箇領18番の石碑があるのですが、それに「第五十八番 伊予国愛媛県佐礼山仙遊寺写」と並記されているのをみつけました。石碑は造立年がありませんでしたが、61番の東覚寺、56番の正蔵寺との位置関係を見ても東葛西領の番号だと思われます。

18番(四箇領)と並記で58番の案内が刻まれている。別の面に十八番へ、十七番へという案内があるため、石碑自体は四箇領の道案内として路辺に立てられたもの。

 これについてはわたしの別ブログのこの記事もどうぞ。
www.chinjuh.mydns.jp
↑長い記事ですが「並記された58番は東葛西領八十八ヶ所」というところが東葛西領の話になってます。




 上記のうちいくつかは「東葛西領八十八ヶ所」の札所ではないかという情報をいただきまして、それなら文久二年の巡拝記が『江戸川区史』にあったと思い、取り急ぎテキスト化してみました。
 この文書には札所になっている寺の名前が全て出てくるわけではなくて、村名で書いてある部分が多く、具体的にどの寺か再現するのは難しいんじゃないかと思っていたのですが、世の中にはなぜか東葛西領の札所一覧があるらしくて、若干混乱気味です。
 あとで余裕があったら、この文書に出てくる村名と、その村にあった寺のリストを作ってみようとは思います(『葛西志』『江戸名所図会』などを解読すればいけそう?)。

 文久二年戌年四月吉日
  東葛西領新八十八ヶ所詣ひとり案内
      村領
 四国霊場八十八ヶ所之写しを巡拝せしことを願いて首夏の五日なるに出立の道つからは、笹ヶ崎むら・篠崎・上鎌田・下鎌田・前野・今井をすぎて、二之江村蓮華寺へ一宿を願ひて中喰を遣ひ、夫より新川口まで参りしが折しも雨ふり出し暫く見合て居たりしが、やむ様子もなければ新川の渡を越ても歩行はなり雖くと戻りければ、雨はしきりにつよくなり五六町の間にことごとくぬれて蓮華寺へ戻りけり。
 朝は能き天気にて、丸でみなぬれて戻りし夏雨にけさたつころも降とをもわん、などと戯て発句に
  蓮池に蛙産まるる御寺かな
 ぬれ着物を火鉢にかけて千人も有、かり着する人もあり、ややすぎて貴僧は御本尊正観世音菩薩を開帳なせしに、同行は有難拝礼をなし暫く鉦をならして念仏を唱えける。夜にいって涅槃経を聴問して後座に酒を数盃頂戴して皆ここちよく伏したりけり。
 発句に
  短夜に夢を見る間も無かりけり
 はや東雲烏つげわたり、かすかにききし鐘の音はさて真間寺のかねとかや、皆老母は起きて米をとぎ、菜をにる老もあり、掃除する老もあり、その中に予はのそんとして莨に更て居たりけり。たちまちに膳立ては出来朝飯を戴き、ゆるゆると仕度して立にけり。是より長島・雷村・中割・新田・宇喜田村の竜光寺にて御茶を希い、中喰を遣ひて新川の三角をこいで船堀えあがり、中川の御関所手前迄行、夫より東小松川にかかり東一之江・西一之江・新堀・鹿骨を打留にして其日は戻りけり。
 明ればけふは七日なり。早朝より仕度して行く道すがらは興之宮村・松本むら・本一色・下小松・上小松村・道ヶ島・五分一にいたりければ時はよしと中喰を遣ひ、夫ゟ逆井を拝し下平井・中平井・上平井むら・奥戸村にて材木屋山内氏の君は同行に一飯を進ぜたき思召より、一同は其奇特の志を考じ遠慮なく頂戴をして遠足の草臥を散じ、暫く休足して是より曲金村・細田上一色ゟ当村円蔵院東福寺迄参詣して其日は帰りけり。そちこちとして四五日おくりければ、はや十二日となりければ天気はよし、殊のほかに一日拝礼をせば結願となりし事を楽みに出立の主催となりにけり。先づ道筋は伊与田法輪寺を始めとして小岩田をすぎ、柴又にかかり堤の外に柳多くありて、発句に
  花ちりし柳は夏の風情かな
 金町の村境に観音堂あり。寺の名をとはばやと近寄よくよくみれば人にはあらで案山子なり。傍に地蔵尊の石ありて
  彳て居ても案山子は一薬師
  鳥を勢至の阿弥陀笠かな
 などと戯て夫より細道を左りへゆけば金蓮院、半田稲荷え参詣して田中の道を行けば、下小合村へかかり四五町ゆけば野中に一軒の出茶屋あり。前には細流ありて四方に道あり、田つづきにしていわん方なき風景なり。ここにて中喰を遣ひ暫く足を休め四方山の噺して居たりしが、咄し中にある人この原は十五六丁にして小向の渡場より新宿までの近道なり。昔ここへわる者出て人のものをはぎ取しことも度々有しが、今は一軒の茶屋出来て其沙汰もやめにけり。夫ゟ猿ヶ又村遍照院に詣て、
  猿ヶ又四国をまわる折からに南無遍照の寺の御祈禱
 などと戯れて三、四丁をゆけば、中川の堤にて飯塚むら夕顔観音堂へ参詣して、少しゆけば浅間の社あり、山高くして大木は茂り中川の流をまのあたりに見て、
 発句に
  水あぶる鴻の羽音や夏の川
 土手に桜多くありて
  葉桜に花の姿の無りけり
 などとはべり。新宿を経て佐倉道筋違橋より鎌倉新田・上小岩・中小岩を拝し当村善養寺を打留として大願成就せしことを皆々心をいさめ別れて帰りけり。
 予が落書は鉄釘をまげて釘ざるの底なしとかや、御笑草の種おろし、笑ふ雀の千声に笑われて居る案山子かな、若しや八十八ヶ所へ参詣の人あらばいささかの杖にもならんかとはべりぬ。

 文久の年二戌ノ卯月上旬

 以上、昭和51年版『江戸川区史』に掲載されたものをテキスト化しました。区史に掲載されたものを句読点まで改変せずに書き写しましたが、たまに間違いがあるかもしれません(ときおり中途半端に歴史的仮名遣いが現代語に直っているのは区史のままです)。原典は善養寺(東小岩の)に所蔵されているそうです。

2021年8月23日

 上記の巡拝記(『ひとり案内』と略します)について、筆者が通った、拝したと書いてある地名(一部は寺や神社の名前)を拾って地図にしてみました。


 ○に★のポイントは、著者が通ったとする村等の名前で、四日かけてまわっているので一日ごとに色分けしました。

 埋もれていてわかりにくいでしょうが、卍のマークはわたしがみつけた謎の札所番号がある寺です。

 前述のとおり「ひとり案内」には寺の名前はごく一部しか書かれていないため、★の場所は札所ではなく村です。この資料だけでは札所のリストは作れません。

 とはいえ、わたしが発見した謎の札所番号(石碑5基と御詠歌の扁額3枚)は #その後もっとみつかってます

  • 「ひとり案内」の範囲からはみ出さない
  • 番号に重複がない
  • 南から北へ番号を振ったようにみえる(つまり全部同じシリーズということ)

といった状況から「ひとり案内」の著者が巡拝した霊場巡り(=東葛西領88)の番号と考えて良さそうです(今後別の手がかりが発見されたら再度検討する必要はありますが)。

 ところでこの「東葛西領」は、資料がないので札所のリストは作れないものと、わたしは考えていたのですが、文久二年(1862年)といえば明治維新はもうすぐといった時期です。ということは、明治に入ってからもこの霊場めぐりは活動していた可能性が高く、もしかすると近年まで(少なくとも南葛の南回りが開創される頃まで)は、札所の場所が知られていた可能性があるのですよね。

 実際ネットでそのリストを公開している方が twitterで連絡をくださったので典拠をおたずねしたところ、札所関係の本をお読みになったそうなんですが、タイトルは覚えてらっしゃらないとのことでした。

 このブログはあくまで二系統の「南葛八十八ヶ所」をめぐるのが主旨なので、ここでは「まあたぶん東葛西領だろう」くらいで満足しておけばいいようには思っています。ちなみに、もしそうならば、東葛西領八十八ヶ所の成立は寛政四年(1821年)まで遡れるということになります。

【追記】2022.05.27.
 この件に関して、葛飾区内で霊場巡りの研究をなさってる方とお話したところ、

  • 東葛西領八十八ヶ所は『ひとり案内』以外に資料がないため、これが正しいというリストはありえない。
  • いくつかの札所には石碑と御詠歌の扁額が残っている(わたしがこのページにまとめたもの以外にもあるかもしれない)。
  • それ以外は「江戸時代からある寺院」「すでに廃寺になっている場合もある」「真言宗の寺院だと仮定する」「個人宅だった可能性もある」という条件で、ひとり案内に出てくる地名とつきあわせて「推測する」しかない。

 …ということです。何かの本に東葛西領の札所リストが載っていたとしても、個人的な研究結果である可能性が高く、何種類か存在するかもしれないです。とりあえず昭和55年ごろに、江戸川区の中川晃さんという方が作ったリストが江戸川区教育委員会に納められているということです(それも推測のひとつでしかないわけですが)。

 なお、唯一の手がかりである『ひとり案内』は、東小岩善養寺にかつてはあったそうなんですが、火事で焼けてしまったとかで現存しないということです…! 古文書はデジタルアーカイブしてネット上で公開してほしいものです。博物館、図書館、教育委員会、あるいは大学の図書館等で呼びかけて積極的にやってほしいものです。失われてしまってからでは遅いのです。

上記謎の霊場巡りまとめ

弘法 観音 寺名  
第01番 秩父番号不明 東葛西・昇覚寺 石碑
第02番   中葛西・正応寺 扁額と石碑
第03番   東葛西・神明寺(昇覚寺に移設) 石碑
第07番 西国21番、秩父18番 東葛西・東善寺 石碑
第08番 葛西三十三所18番 北葛西・竜光寺 石碑・寛政四年
第11番 西国11番 江戸川・蓮華寺 石碑
第27番   一之江・薬王寺 扁額と石碑
第28番   一之江・妙音寺 石碑
第31番   松江・東善寺 石碑
第35番   小松川・宝積院 石碑
第56番   上一色正蔵 石碑
第58番 四箇領18名番 奥戸妙厳寺 石碑
第61番   細田・東覚寺(東学寺) 扁額
第65番   水元・遍照院 扁額
第74番 西国9番 柴又・医王寺 石碑
第75番   柴又・真勝院 扁額
第76番   葛飾区鎌倉・浄光院 扁額
第78番   北小岩・十念寺 扁額

 西国○番は観音霊場で33ヶ所、秩父も観音霊場で33ないし34ヶ所あったはずです。

 葛西三十三所は『東都歳時記』に元禄年間に開創されたものの一覧があるが、18番は木母寺で、北葛西の竜光寺はこの一覧に含まれていない。

 弘法大師霊場は南から順に番号をふったんだろうと思っていましたが、このなかでは一番北にある遍照院は65番でした。

 ということは、遍照院あたりで折り返して、また南下して戻る感じのルートだったんでしょうね。「ひとり案内」の筆者がまさにそういう回り方をしています。


弘法大師 空海 密教