東小松川・宝積院
東小松川・宝積院は南葛「南回り」第八十八番札所です。境内の大師堂に南回りの扁額があります。また松江村廿一ヶ所の第十番でもあります。
【札所番号】
南回り:第八十八番
松江村廿一ヶ所:第十番
【札所名】宝積院(真言宗豊山派)
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区東小松川2-4471 |
現在の地名 | 江戸川区東小松川2-1-16 |
# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。江戸川区内は川や道路の工事で大々的に丁目や番地のふりかたが変わるなどしており、昔の資料にあたる時に必要になるかもしれないので書いてみることにしました。
【御詠歌(南回り88)】本尊薬師如来
なむやくし しよびやうなかれと ねがひつゝ まいれるひとは おほくぼのてら
【御詠歌(松江村10)】
うまれつゝ いでいるいきの そのまゝに あうんのにじの たへまなければ
東小松川の宝積院(ほうしゃくいん)は、南葛八十八ヶ所南回りの第八十八番です。南回りは東小松川(旧・松江村)の善照寺から始まって、同村内の宝積院に戻ってくる霊場巡りです。南回りの札所としては、わたしはここを最初にみつけました。墓地内に大師堂があり、軒下に扁額がふたつ掲げられています。ひとつは南葛南回りのもので、もうひとつは松江村二十一ヶ所という、わたしはまったく聞いた事のない霊場巡りのものでした。さらにお堂の脇に「南無興教大師」と刻まれた石柱があり、脇面に「四国三十五番」の文字も見えます。
まずは南葛南回りについて書きます。
同じ事を何度もいろんなところに書いていますが、南葛八十八ヶ所と呼ばれている霊場巡りは二系統あります。作られた年代も違えば、作った人も、順路も、まったく違う別の霊場巡りです。二つあって呼び分けられないと不便なので、当ブログでは「いろは大師」「南回り」と呼び分けています。詳しくは「目次のページ」を読んでください。
宝積院の札所は、目的もなくこのあたりを歩いてみつけたので、その時は「あれ、南葛(いろは大師だと思っている)の札所ってこんなところにもあるの?」と適当に納得して、写真も文字が読めればそれでいいやくらいの気持ちで写しました。ピンボケしているのはそのせいです。帰宅後に調べたら、いろは大師の八十八番は葛飾区奥戸の妙厳寺だし、ならば宝積寺にある八十八番の扁額は一体なんなのか?! と思ったのがこのブログをはじめるきっかけでした。
図書館で郷土資料をあたったところ下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』に、八十八番を東小松川宝積院とする霊場巡りについて「明治四十三年十二月に東京弘山講により開創された」と書いてありました。この本では名称を「南葛新四国八十八所」としていますが、札所に残っている扁額を見る限り「新四国南葛八十八ヶ所」と刻まれており、正式にどうという決まりもないんだと思います。
お堂の中を格子の隙間から拝見すると、小さなガラスケースに収められた大師像と本尊像が安置されています。この大師像が南回りのために安置されたのか、それとも松江村二十一ヶ所のものなのかは、ちょっとわかりません。 どうやらこの小さなお大師様とご本尊様は南葛南回り固有のもののようです。南回りの大師堂はほとんど残っていないのですが、東瑞江の泉福寺にも同形式の大師像が残っています。
これが南回り八十八番の扁額です。
新四国南葛八十八ヶ所
第八十八番御本尊薬師如来
なむやくし
しよびやうなかれと
ねがひつつ
まいれるひとは
おほくぼのてら東京弘山講
明治四十五年
五月 納施主
中沢菊次郎
保土田銀次郎(または鉄次郎?)
同 安太郎
同 銀蔵
このブログを書いている時点では、すでに何ヶ所かの札所で同様の扁額を見ています。必ず東京弘山講という南回りを開創した講名と、明治四十五年の文字が入っていました。例>四十番・北小岩正真寺、三十九番・北小岩真光寺
次に、松江村二十一ヶ所(廿一ヶ所)についても見ていきます。こちらも大師堂の軒下に扁額がかかっていました。
松江村廿一箇所
第十番 宝積院
うまれつゝ
いでいるいきの
そのまゝに
あうんのにじの
たへま
なければ
刻まれているのはこれだけで、講の名前も年代もありません。これはまったく知らない霊場巡りです。『江戸・東京札所事典』にも、二十一ヶ所めぐりの例がいくつか掲載されていますが松江村はありませんでした。今後このあたりのお寺をまわってみる予定なので、もっとみつかるかもしれません。
最後にお堂脇の石柱についてですが、正面には「南無興教大師」とあり、向かって左面に
四国第卅五番(三十五番)
土州清瀧寺写
宝積院
と刻まれています。ちなみに興教大師も真言宗のお坊さんです。弘法大師の没後、荒廃していた真言宗を建て直した人ですね。向かって右面にも何か漢字で書かれているのですが、苔むしたりしてほとんど読めませんでした。これももしかすると何かの霊場巡りの一部なのかもしれないのですが、現在何に属しているかまったく不明です。
(左面)
四国第卅五番
土州清瀧寺写
宝積院
南葛八十八ヶ所が二系統あることに気づいただけでも自分の中では大発見だったのですが、さらに二つ、まったく未知の霊場巡りをみつけてしまいました。昔の人はどれだけ霊場巡りが好きだったんでしょうね!
【追記】2021.08.20.
ピンボケだった扁額の写真を撮り直して差し替えました(現在はピンボケしていません)。
興教大師と書くべきところを伝教大師と書いてしまっていたので修正しました(頭では興教大師と読んでいるのに何度やっても手が勝手に…!)
その「南無興教大師」の石碑は、向かって右面と裏にも文字が刻まれていますが、裏面は真っ昼間だと光の関係でどうやっても写真に移りませんでした。右面はどうにか撮影して画像処理をしたところ、いくらか読める文字があったので下に追記します。
■は読めない
?は直前の文字に自信がない
(右面)
組?寛政四歳■壬子■人十二 大師■
唱滅■於根?嶺?六百五十年于此魚?津■
之功■道之?■■然千?今因■現前■■
■力建此■■添■■以奉酬?海岳■
秘宝既無尽 密蔵■■■
遍明破儀?闇 ■楽?転真輪
#(裏面)と書いてましたが、写真を良く見直したら向かって右面だったので直しました。
ほとんど読めていないのですが、1行目の「寛政四歳」と2行目の「六百五十年」は重要な手がかりになりました。これまでに宝積寺をふくめて四つの寺で「寛政四」と刻まれた石碑を発見しています。
詳しくは「何に属するかわからない札所番号」をご覧ください。