二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

東瑞江・泉福寺

【札所番号】
南回り:第三十番
#下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』では第八十三番もここだとされていますが、同名の別のお寺である可能性が高いです(詳しくは本文にて)

【札所名】泉福寺(浄土宗)

【所在地】

現在の地名 江戸川区東瑞江2-36

【御詠歌(南回り30)】
ひとおほく たちあつまれる いちのみや むかしもいまも さかへぬるかな

【南回り次の札所】
三十一番、東瑞江・長寿院

「南回り」という呼称については目次のページをご覧ください。


 緊急事態宣言は解除されましたが、感染者がめざましく減ってるわけでもなく、東京や大阪ではマンボーというものが適用されるそうですね。でも呼びかけられているのは飲食店の時短営業と他県への移動の自粛くらいで、結局なんの変化もないということでファイナルアンサー? 活動再開などといいつつ、やはり不要不急の寺参りは自粛すべきなのかな。お大師様タスケテー。

 今回は南葛八十八ヶ所南回りの三十番です。毎度おなじみ下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』によると、三十番は江戸川区東瑞江の泉福寺ということになっていて、さらに八十三番も同じ寺ということになっています。

 しかし、南葛南回りは順路が番号順になっていて、八十番台は江戸川区小松川あたりにあるはずなんです。東瑞江と東小松川では(地名は似てますけど)まるっきり場所は別です。

 それでちょっと調べてみると、あらあら、東小松川にも泉福寺があるんですね。そっちはまだお参りしていないので断言はできませんが、たぶん八十三番は東小松川・泉福寺じゃないのかなあ。

 『江戸・東京札所事典』は、都内に順路がある霊場めぐりをかなり網羅していており、著者の札所愛が詰まった本ですが、どうも校正が甘いみたいで、ここ以外にも「いや、順路的に××町の同名の寺でないとおかしい」みたいなケースが散見されます。たとえば三十三番の西光寺とか…

 とにかく、南葛南回りの第三十番は「東瑞江・泉福寺」です。これは断言できます。というのも、あったんですよ、大師堂! 東京弘山講の名前も書かれていて、はっきり南回りの札所とわかるようになっていました。

東瑞江・泉福寺門前より
南葛八十八ヶ所南回り三十番の大師堂(左のお堂)
大師堂には「講元・東京弘山講」の文字が!
大師堂の軒下に掲げられた御詠歌の扁額

 南葛南回りは、多くの札所になんの痕跡もなく、あっても御詠歌の扁額くらいだったのですが、すぐ近くの東瑞江・長寿院に石碑があることがわかり、そしてここ泉福寺には大師堂がありました。

 お堂に向かって左の柱には「講元 東京弘山講 お唱えする言葉 南無阿弥陀仏 南無大師遍照金剛」とあります。東京弘山講は南回りを開創した講(こう)の名前です。

 向かって右の柱には「新四国南葛八十八箇所第三十番御本尊阿弥陀如来」とあります。

 お堂の前には立て札もありますが、これは文字が薄れていて読めませんでした。

 また、お堂のひさしの下には、これまでいくつかの札所でみつけたのと同じ形式の扁額がかかげられていました。

新四国南葛八十八ヶ所
第三十番御本尊阿弥陀如来
ひとおほく
  たちあつまれる
    いちのみや
むかしもいまも
  さかへぬるかな

 東京弘山講
明治四十五年
五月 納

施主
 鹿倉庫松
 太田津名?

 お堂の中には小さな厨子があり、中に木製の小さなお大師様と御本尊の阿弥陀如来が納められているのが見えました。

 最初のほうで書いたように、下町タイムス説では八十三番もここなんですけど、現地には三十番としか書かれていないようですね。やはり八十三番は順路から考えても「東小松川」の泉福寺じゃないのかなあ。いずれそちらにもお参りしてみる予定です。

 というわけで、南回り第三十番でした。これまで何度か「南葛南回りは大師堂などを作らないスタイルだったようです」と書いたと思うのですが、どうやらそれは間違いで、大師堂が建立されたケースもあるとわかりました。ただし、全ての札所にあったかどうかはわかりません。多くの札所には、なんの痕跡も残されていないのです。

 最後になりましたが、時々書いておかないと不安なのでまた書いておきますね。「南葛八十八ヶ所」は二系統あります。名前は同じですが、作られた時代や、作った人たちが違い、札所も順路もまったく違う完全に別のものです。

 ひとつは明治末期に東京弘山講が開創したもので、順路が主に江戸川区を通っています。これを当ブログでは南葛南回りと呼んでいます。

 もうひとつは大正時代に東京大心講が開創したもので、当ブログでは南葛いろは大師と呼んでいます。

 詳しくは目次のページなどもご覧ください。

 ブログ筆者は葛飾区在住のお散歩好きで、どちらの講とも御縁がありません。もし関係者の方で「それは間違っている」「その件ならこう聞いている」「お婆ちゃん、お爺ちゃんに連れられて巡行大師に行った事がある」というようなご意見、思い出話などございましたら、ご遠慮なくコメントを残してくだされば幸いです。コメントはログインなどしなくてもどなたでも残せるようにしてあります。

【追記】2022年7月26日

 コメント欄やメールでいろいろ教えてくださる小川さんという研究家の方が、奥戸善紹寺(これは、いろは大師=大心講の一番札所です)の大師堂内に南回り=弘山講の大師像があるとおっしゃいまして、最初は「何を言ってるんだこの人は……?!」と困惑したんですが、いろいろお尋ねしたところ、江戸川区のどこだかのお寺にあるものが、善紹寺のお堂にあるのと酷似してるとおっしゃるんですよね。

 それで自分の写真を見直したところ、東瑞江・泉福寺の大師像が確かにかなりよく似ている。お厨子の形が少し違いますが…

東瑞江・泉福寺、大師堂内の様子
泉福寺、像だけ拡大したもの

▲東瑞江・泉福寺は南回り=弘山講の30番札所です。ガラス越しの撮影で写り込みが激しいのと、お堂にあるものが霊場巡りのために作られたとは限らないので、掲載を保留していたものです。

 そして、善紹寺(いろは大師=大心講)のお堂と大師像は↓これです。

奥戸・善紹寺の一番大師堂。向かって右下に木のお厨子に入った大師像と本尊像が二つある。
善紹寺一番大師堂、木製のお厨子

奥戸・善紹寺は いろは大師=大心講の1番札所です。石像は大心講のものなんですが、この木製のお厨子はなぜここに納められているのかよくわからないものでした。

 こうして並べてみると、サイズもだいたい同じですし、大師像と本尊像を並べてひとつの厨子に納める形式など、本当によく似ています。見える場所に番号が入っているわけではないので断言はできないのですが、同じシリーズの大師像だと言われると、たしかにそんな風に見えますね。

 なぜこんなことになっているのかはよくわかりませんが、南回りのいずれかの札所で、お世話する人がいなくなったために霊場じまいをして、残った像をどこに納めればいいかわからず、同じ名前であちこちに大師像がある いろは大師=大心講の1番に納めたのかなあと。あくまで想像ですけど。

 なお、南回り=弘山講の1番札所は東小松川の善照寺だと言われてます(漢字こそ違うのですが、善紹寺とは読み方が同じです)。近くに88番、87番のお寺があるので間違いなさそうですが、実は善照寺が1番だというはっきりした手がかりも、今のところなかったりします。

弘法大師 空海 密教