鹿骨・密蔵院
【札所番号】
南回り:第七十八番
【札所名】密蔵院(真言宗豊山派)
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区鹿骨江戸川区鹿骨4-78-1 | |
現在の地名 | 江戸川区鹿骨4-2-3 |
#旧番地は『江戸・東京札所事典』による
【御詠歌(南回り78)】
【南回り次の札所】
第七十九番、本一色・光照寺
当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。
「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。
江戸川区鹿骨の密蔵院は南葛八十八ヶ所「南回り」の第七十八番札所とされています。南回り固有の大師堂や扁額、石碑のようなものはみつかりませんでした。ただ、これはわたしが境内を拝見して見当たらなかったと言っているだけなので、ご詠歌を刻んだ扁額などは本堂などに納められている可能性はゼロではありません。
ところで、南回りの札所を地図上にマークしていくと、70番台の流れから78番だけぴょんと跳んでいるのが気になります。
そこで大正〜昭和にかけてのいずれかの時期に寺が移動した可能性を考えて昭和51年版の『江戸川区史』を見たのですが、寺院の一覧に密蔵院がありませんでした。
密蔵院さんは立派な公式サイトをお持ちなのでそちらを拝見したところ、もともとは独立したお寺だったのですが、明治期のいつごろかに「小岩善養寺の境外仏堂」となり、無住のお寺だったということです。住職がいないといっても、地元の信仰は厚く、青年団の寄りあい所として機能していたとのこと。
これはなるほど、と思いました。江戸川区史の寺院リストは、独立したお寺をリストアップしているようですね。固有の名前があっても、住職がおらず別のお寺に管理されているような場合はリストからはずされていたんだと思います。
区史にない理由はわかったのですが、お寺の公式サイトを見ても移転したというような情報はなさそうなので、78番だけルートからはずれている理由は結局よくわかりませんでした。ただ、はずれているといっても77→78の距離は直線で3km程度なので、それほど目茶苦茶な跳び方でもありません。
南回りの札所リストは下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』という本を見ています。というか、その本でしかまとまった資料を見た事がありません。ところが、この本は同名のお寺をとりちがえてリスト化しているフシがあり、時折ありえないような場所を札所としてあげている事があります。それを思えばそれほど不自然ではなさそうです。
こういったことはお寺の方に聞けばいいんじゃないのかと思わなくもないのですが、南葛南回り(…というのはわたしが便宜上そう呼んでいるだけなのですが)は、明治末期に開創されて、それからあまり長いこと活動をしていなかったようなので、長く住職のいなかったお寺では、覚えている方もいないだろうなとも思います。
話がくどくですみません。まとめると
・『事典』では鹿骨四丁目の密蔵院を78番としている
・この寺は順路からちょっぴりはずれている
・『事典』はたまに情報があやしい
・密蔵院という名前のお寺は、少なくとも現在は順路の近くになさそう
・こちらのお寺を78番ではない、と言い切るほどの材料もない
・78番である、と断言できる材料もない
ということになります。
わたしが便宜上「南回り」と呼んでいる霊場巡りは、東小松川の善照寺を一番として、江戸川区の全域をまわり、葛飾区や浦安市をかすめつつ、また東小松川に戻ってくるルートになっています。(同名で奥戸の善紹寺を一番とする霊場めぐりとは完全に別のものです)
いくつかのお寺には東京弘山講の名前が入ったご詠歌の扁額(明治45年の日付入り)や石碑(明治43年と刻まれている)などが残されていますが、多くのお寺には現在何もありません。
活動していたのは明治末期から大正時代、長くても昭和の初期までではないかと思われます。しかし、必ず霊場のお世話をしていた人がいるはずなので、旧家の仏壇などに「東京弘山講」の名前が入った資料がみつかるかもしれません。
ここに書いても伝わらないかなーとは思うのですが、もし見つけて、運良く検索でこのブログにたどり着いた方は、処分なさる前に一度拝見させていただければと思います。最終的には地元の図書館などに郷土資料として納めるのがいいかと思います。
ご連絡は、コメント欄に何か書いてくだされば、わたしのところに通知がくるはずですのでお気軽にお知らせください。もしくはtwitterの @chinjuh までダイレクトメッセージをいただいてもかまいません。