東葛西・智光院
東葛西の智光院は、南葛「南回り」の二十二番札所です。境内に大師堂があり、堂内の像は別の霊場巡りのものですが、堂の左脇にある石柱は南葛八十八ヶ所「南回り」のものです。
【札所番号】
南回り:第二十二番
謎(葛西):第十六番
【札所名】智光院(浄土宗)
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区長島町12 | |
現在の地名 | 江戸川区東葛西3-14-3 |
# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』による。
【御詠歌(南回り22)】
【南回り次の札所】
第二十三番、江戸川区江戸川・真福寺
当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。
「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。
いきなり冒頭に追記するのもなんですが、↓の本文を書いたあとに、ちょっと思うところがあってもう一度参拝に行きました。石に刻まれた文字は光の加減でよく見えることもあれば、ぜんぜん読めないやってこともありまして、二度目の時は書いてある文字が非常にくっきり読めまして、なんと関係ないと思っていた大師堂脇の石柱に「二十二番」と書いてありました。これは「南回り」の番号です。作られたのは昭和9年ごろ(1100遠忌と書かれているので)。詳しくは本文後ろに追記しておきます。
ここより初回訪問時に書いた本文
東葛西の智光院は、南葛八十八箇所の「南回り」の二十二番札所とされていますが、南回り固有の像や扁額は見つかっていません。
境内入り口に大師堂があり、大師像の台座に第十六番の文字があります。これが正確に何に属しているのか、今のところわからないのですが、葛西地域に同じ形式の大師像がいくつもあるので、「葛西大師まいり」関連ではないかと想像しています。
江戸川区の葛西地区や浦安市には弘法大師をまつる民家、寺院、路辺の堂宇が30ヶ所くらいあり、江戸時代から大師まいりが盛んだったとのこと。今でも続いてはいるようで江戸川区の文化財にもなっているんですが、その霊場の全貌が江戸川区のサイトなどを見てもあきらかにされておらず、わたしはまだまとまった資料をみつけていないので今のところよくわからない状態です。
▲葛西〜浦安地域の大師像は、柱状の台座の上に、一回り大きく平たい台座を置いて、その上に大師像を安置する形式をよく見ます。
新四国
弘法大師
第拾六番【第十六番】
「南回り」ならば二十二番なので、また別の霊場巡りのものということになります。先に書いた通り、葛西地区のお寺にシリーズものっぽいお大師様がいくつもありまして、そのいくつかは台座の脇にスマホをそっとさし入れて見ることができたんですけど、向かって左面には世話人や納人のお名前が刻まれている事が多く、右面には何も書いていないか、造立年が刻まれていることがあります。東葛西・真蔵院のものには昭和八年十一月と刻まれていたので、おそらく1934年(昭和9年)の弘法大師1100年遠忌のために作られたものではないかと考えられます。>謎の札所(葛西〜船堀地区に集中)のリスト - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場
この大師堂の脇に柱状の石碑があります。こちらも別のお寺で同じ形式のものを見ました。
【石柱の正面】
新四国八十八箇所之内第…(薄れていて読めず)
卍南無大師遍照金剛
智光院【石柱向かって右面】
為弘法大師一千百年…記念(薄れていて読めず)
文字が読みにくくなっているため、わたしが読み間違ってる可能性もありますが、一千百年と見えるような気がするので、堂内の像と同じく1934年(昭和9年)の弘法大師1100年遠忌の際に立てられたものかと思います。
この石碑には「八十八箇所之内」という文字も見えます。この書き方なら続きは番号ですから、第拾六番なのかな、とは思います。チャンスがあったらまた別の日に拝見しに行こうかと思います。こういったものは光の加減で読める事もあります。 # 再訪しました。この石柱は南回りのものです! 本文の終わりに追記します。
別の札所のことはさておき、当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所について注目して札所巡りをしていますので、南葛のほうを少し考えてみたいと思います。
智光院は、南葛南回りの22番で、南回りは基本、番号順に参拝できるようになっています。しかし、22番の最寄りは20、18、17番あたりです。21番も22番も北に少し離れたところにあります。
疑と書いてあるのは『江戸・東京札所事典』でその寺院をあげているものの、順路的に疑わしいもので、?がついているのは『事典』が別の寺院をあげているもののそこではないかと思われる寺院です。19番はこの図にはなくて『事典』では墨田区の寺院をあげていますが、これもかなり疑わしいです(とはいえ、ここではあまり関係ないので深く考えないでください)。
見てほしいのは、番号順に回れるようになっていることと、21番でぎゅんと北へ向かい、なぜか22番に戻ってきて、23番でまた北へ戻る、おかしな道順になっていることです。
『事典』にある札所リストは、もちろんデタラメとは思いませんが、何ヶ所か疑わしい部分があるため、単純な書き間違いの可能性は否定できない、というかかなりその可能性が高い。
ただ、もしかしたら船での移動を想定しているのではないか、とも思えます。
ここから先は本当にただ空想して遊んでいるようなものですが、たとえば21番の蓮華寺へ北上したあと、60番台の浦安・市川の千葉県エリアを回ってしまうとします。江戸川で船に乗り(渡し舟なのか、地元の世話人の誰かが提供するのかはわかりませんが)、船は上るより下るほうが楽でしょうから63番の近くへ乗りつけるとします。
千葉県エリアをくるっと回り、66番のあとまた船で江戸川を渡り、妙見島をどう迂回したかはわかりませんが22番の近くに乗りつけるとしたらどうでしょう。ここでお遍路さんを下ろせば船は軽くなるのでさかのぼりやすくなるでしょう。お遍路さんは22番から徒歩で北上して23番へ。
これなら行きつ戻りつしている順路が合理的に説明できるような気がします。完全に想像ですけどね!
再訪後の追記 2021,11,08
初回訪問時は光の加減などもあり大師堂脇の石柱の文字がよく見えず、写真にとったものも不明瞭で読めなかったのですが、再訪して肉眼でも確認、写真にもくっきり写りました。
それで分かったのですが、この石柱は間違いなく「南回り」のために作られたものです。正面に「新四国八十八箇所之内第二十二番霊場」と刻まれています。
脇面は残念ながら本当に劣化して読みにくくなっているのですが、「弘法大師一千百」は間違いなさそうなので弘法大師1100年遠忌にあたる昭和9年ごろに作られたものです。
おそらく、この頃すでに東京弘山講は活動していなかったでしょうが、それでも地元の方々が「南葛八十八箇所の22番である」ということを認識していてこの石碑を建てたのだと思います(そのため石柱に東京弘山講の文字がない)。
また、堂内の大師像の脇面も撮影してみたのですが、こちらも造立年が昭和9年とはっきり書いてありました。正面に刻まれた番号は「第拾六番(十六番)」なので南葛八十八ヶ所とは別に作られた霊場巡りです。
1100年遠忌に際して、新しい霊場巡りを整備すると同時に、古くからあった南葛八十八ヶ所のためにも石碑を建てたのだなあと思ったら、ちょっと胸が熱くなりました。再訪してよかった。きっと「お前にはまだ見えていないものがある」とお大師様に呼ばれたのだと思います。
なお、同じ形式の石柱が東葛西・自性院にもあるのですが、こちらも南回りのものであることを確認できました。このあと追記しておきます。