市川市新井・延命寺
【札所番号】
南回り:第六十四番
行徳三十三所:第二十八番(観音霊場)
【所在地】
現在の地名 | 千葉県市川市新井1-9-2 |
【御詠歌(南回り64)】
【南回り次の札所】
第六十五番、千葉県浦安市・花蔵院
当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。
「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。
市川市新井の延命寺は南葛八十八ヶ所「南回り」の第六十四番です。残念ながら南回り固有の大師堂や扁額などはありませんでした。
寺門を入ってすぐ左手に、柱状の台座に鎮座する石の大師像が二体ありましたが、これらは近隣の寺や路傍のお堂などに無数に存在するものです。あるいは知られざる八十八ヶ所めぐりの一部である可能性はありますが、少なくとも南回り関連のものではなさそうです。柱状の台座に江戸川区の石材店の名前が入っていましたが、造立年などは刻まれていませんでした。石材店の電話番号が 610-XXXX となっており、昭和期に納められたものだとわかります(台座と大師像が同時に作られたと仮定すれば、ということですが)。
こちらのお寺には「首切り地蔵」というものがあります。もともとは江戸川堤防の新井水門のあたりにあり、その場所は「ねね塚」と呼ばれていたそうです。
この地蔵について、境内に二種類の解説板があり、書いてあることが少しずつ違うのですが、まとめると以下のような感じです。
- 久三郎とイネという男女が駆け落ちし、江戸川を渡ろうとする。
- 当時、女人に江戸入りは厳しく禁じられていた。
- 二人が役人に捕まると、二人を渡した船頭とその家族ともども処刑された。
- 正保元年(1644年)のことだとする説。
- 久三郎は生実藩主・森川半弥(=森川俊孝)の家臣とする説(だとすれば18世紀の話)。
- 船頭と家族の遺体は菩提寺に引き取られたが、久三郎とイネは新井水門のあたりに埋められた。
- 村人が地蔵を作り二人を弔った。後に「ねね塚」と呼ばれるようになる。
- 天明二年(1782年)ごろ?
- 寛政七年、延命寺の住職が地蔵を再建。
- その後、地蔵は延命寺に移される。
- 昭和に入り、また地蔵が作り直されて現在に至る。
- この地蔵は首切り地蔵と呼ばれているが、
- 久三郎とイネの処刑にまつわる説。
- 明治以降に、たびたび首が落ちるようになり、村人がセメントで修復するも、しばらくするとまた落ちてしまうので首切り地蔵と呼ばれたという説。
入鉄砲出女は学校でも習いますが、江戸入りする女も取り締まられた事があるのでしょうか。ここらへんの歴史が微妙にわかりません。