「南回り」四番かもしれない浦安堀江・東学寺
浦安堀江の東学寺は、南葛「南回り」の四番札所かもしれませんが、いくつかの疑いがあり、わたしはここじゃないと思っています。詳しくは本文をご覧ください。
【札所番号】
南回り:第四番(かもしれない)
# ここを四番とするのは『江戸・東京札所事典』によります。ただしいくつかの疑問があり、わたしはここではないと思っています。詳しくは本文にて。
行徳三十三所:第三十一番(観音霊場)
【札所名】東学寺(真言宗豊山派)
# 『江戸・東京名所事典』には東"覚"寺とある。
【所在地】
旧番地等 | 千葉県浦安市堀江193 | |
現在の地名 | 千葉県浦安市堀江2-4-27 東学寺 |
# 旧番地は『江戸・東京札所事典』による。
【御詠歌(南回り04)】
【南回り次の札所】
(第五番、江戸川区船堀・法然寺)
# 五番はありえないような遠くへ移動することになるので注意。このあたりの札所を回るならば↓の66番に進むこと。
第六十六番、浦安市当代島・善福寺
当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。
「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。
南葛八十八ヶ所「南回り」については、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』という昭和の終わりに出版された本を参考にしています。以下『事典』と略します。
この本によれば、南回りの四番は「安市堀江193 東覚寺」ということになっています。東の覚える寺です。学ぶではなくて。
しかし、順路的に四番が浦安にあるのはどうもおかしいのです。南回りの札所を地図上に配置してみると、ほとんどが番号順に並んでいます。三番も五番も東京都江戸川区なのに、四番だけ浦安にポンと飛んでいます。ちなみに三番から五番へは川を挟んでいますが遠くはありません。
さらにおかしなことに、浦安市堀江地区には東"覚"寺はありません。代わりに「東 "学" 寺」ならありました。
学と覚は冠が同じなのと、旧字体だと學と覺で、画数が多いため、手書きの資料では取り違えられていることが多々あるようです。おそらく、『事典』の著者は堀江三丁目の東学寺のつもりで書いたと思われます。
思われます、などと歯切れがわるいのは、当時と番地が変わってしまっているからです。堀江193が現在の堀江何丁目何番地にあたるかわかればもう少し歯切れよく言えるのですが、ネットで調べても対応表が公開されていませんでした><
浦安の古い『市史』をどこかで見られれば寺院の一覧があるかもしれないので、後日見つけたら追記しようとは思います。
この二点から、わたしは南回りの四番は浦安ではないと考えています。
ではどこが四番なのか?!
ひとつの候補として「亀戸四丁目の東覚寺」ではないかと考えました。寺の名前が同じですし、三番の平井からだと、そう目茶苦茶遠くはないからです。
ただ、やはり江戸川区平井から江東区の亀戸に飛んで、また江戸川区船堀に戻ってくるのは不自然だと思うんです。亀戸や墨田のあたりには他にも札所があるのに、なぜまとめて巡拝せず、途中に差し込まれているのか?
いちおう亀戸の東覚寺にも行ってみたのですが、南回りの札所だと特定できる材料はありませんでした。
そこでさらに思いついたのは「四番は廃寺なのでは?」です。上に貼った『事典』のページを見てほしいのですが、二番の観音寺の所在地が「不明」になっていますね。
この二番の場所もわからないんです。江戸川区の昭和51年版の区史をあたってみたのですが、観音寺という名前の寺はありませんでした。おそらくですが、東小松川と平井の間くらいにあって、荒川放水路(現在の荒川)の工事にかかって廃寺になったものと推測できます。
平井の三番と、船堀の五番の間に「四番・東覚寺」があったのだとしたら、やはり川の工事にかかって廃寺になったのかもしれません。
というわけで、わたしは「四番は廃寺」だと思っているのですが、せっかくなので浦安堀江の「東学寺」にも行って見ましたが、もともと南回り固有のものは残っていないケースのほうが多いので、ここでも手がかりはまったくありませんでした。
この石碑は、向かって右は江戸時代のもので(裏に天明四辰年とある)、左は紀元二千五百四十???とあったので、明治13〜23年のいずれかにあたるでしょう。「南回り」が開創された明治43年よりも古いものです。
- 元亀年間(1570〜1573年)ごろ、堀江村は与八郎の年老いた母親が砂浜で人形のようなものを拾い、玩具箱にしまって忘れてしまう。
- 村中に疫病が流行り、与八郎の家族も病に倒れる。
- 下総国木下川(葛飾区四つ木)の木下川薬師に参拝する。
- 木下川の住職に「わざわざ来なくてもあなたの家には薬師如来があります」と言われる。
- 慌てて家に帰り探してみると、玩具箱の中に亀に乗った薬師如来像があった。
- 与八郎の一家は病気が治り、後に亀乗薬師如来像は東学寺に奉納された。
残念ながら亀乗薬師如来像は非公開とのことです。南葛八十八ヶ所の手がかりはなかったけれど、こんな伝説は大好きです。疫病になやまされる時代でもあり、しっかり参拝いたしました。