二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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南回り四番の候補のひとつ亀戸・東覚寺

 亀戸・東覚寺は南葛「南回り」の第四番"かも知れない"お寺のひとつです。個人的には四番は廃寺になったいずれかの寺だろうと思っていますが、いちおう候補としてあげておきます。南・四番については>浦安市堀江・東学寺もご覧ください。


【札所番号】
南回り:第四番「かも知れない」
# わたし四番は廃寺で現存しないと考えています。

御府内:第七十三番

亀戸七福神:弁財天

【札所名】東覚寺(真言宗智山派

【所在地】

現在の地名 江東区亀戸4-24-1

【御詠歌(南回り04)】

【南回り次の札所】
第五番、江戸川区船堀・法然

当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。

「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。


 南葛「南回り」については下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』を資料にしています。この本は昭和の終わりくらいに出版されたものです。以下『事典』と略します。

 『事典』では、南回りの四番は浦安市堀江の東覚寺(正しくは東学寺)ということになっているのですが、三番が江戸川区、五番も江戸川区なのに、四番だけ浦安市なのはおかしいと思うのです。これについては 浦安市堀江・東学寺 にも書きました。

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下町タイムス社『江戸・東京札所事典』より南回りの札所一覧(一部)
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南回り三番、四番、五番の位置関係。南回りが開創された明治末期には、荒川はまだここにはありませんでした。

 『事典』の筆者がどういう資料から南回りの札所一覧を作ったかわからないのですが、おそらく明治時代に東京弘山講が作った札所の案内をお持ちだったのではないかと想像しています。

 明治の資料ですから昔の地名で書かれているでしょうし、資料が薄れていたかもしれません。それを現在の住所に直す際に、何かの手違いで同名の(正確に言うと浦安の寺は東学寺なので一字違いの)お寺の住所と取り違えたのではないかなと思います。

 では本当の南・四番はどこにあるのでしょうか。

 結論から言うと、四番は廃寺となったいずれかの寺の可能性が高い…と私は思ってます。南回りは明治43年の開創ですが、その頃東京では大水の被害があり、大雨でも水が溜まらないように荒川放水路が整備されました。川にかかって移転したお寺が沢山ありますし、中には廃寺になり、忘れ去られたお寺もあったかと思われます(二番の観音寺など)。

 しかし、廃寺説も確証があるわけではありませんので、現存するならと仮定して考えると、亀戸の東覚寺の可能性を候補にあげても良さそうです。こちらの寺も(上記の地図を見ていただければわかりやすいかと思いますが)順路的にはちょっと不自然なのですが、いきなり千葉県に飛ぶよりは、まだありそうな気がします。

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亀戸・東覚寺

 こちらも真言宗のお寺で、御府内八十八所という別の霊場巡りの七十三番でもあります。しかし、ここでも手がかりはありませんでした。もともと南回りの札所には何もないことが多いですから、アタリもハズレもわからないのです…!

 『事典』の著者がどんな資料を見てリストを作ったのか気になりますね。それと同じものを見られたらいいんですけど。もう30年も前の本なので著者が御存命なのかもわからないし、発行元の下町タイムスも2001年にミニコミ誌を休刊して、その後は本が何冊か出ているみたいなんですが、それも15年以上前の話で連絡の取りようもありません。

 亀戸のほかに、葛飾区細田にも東覚寺がありますが、浦安ほどではないにせよ離れすぎているのでやはり違うでしょう。

オマケ:亀戸七福神の弁財天

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亀戸・東覚寺の弁天堂(亀戸七福神

 亀戸・東覚寺は、亀戸七福神の弁財天でもあります。『事典』によれば明治四十二年頃に始まり、昭和五十三年に復活した霊場巡りとのこと。

寿老人:常光寺/亀戸4-48
弁財天:東覚寺/同4-28
恵比寿・大国:香取神社/同3-57
福禄寿:天祖神社/同3-38
布袋尊:龍眼寺/同3-34
毘沙門天:普門院/同3-43

# 住所は『事典』のリストのまま直してないです。番地が少し変わっているかもしれません。
 



【追記】
 本文にも書いた通り、わたしは南回り四番は廃寺になったいずれかの寺だろうと思っています。そこで、廃寺説を確かめるために江戸末期に作られた『葛西志』というこのあたりの地誌をあたってみたのですが、残念ながら東小松川近辺に東覚寺は記録がないようです(一番近いのはこのページに候補としてあげた亀戸の東覚寺ですね)。江戸末期にないものは、明治の終わりにもないような気がします。100年くらいの隔たりはありますが。

 仮説のひとつとして、たとえば亀戸村の東覚寺持ちの墓地があって、それを東覚寺さんと呼んでいたとかだったら、仮に川にかかって墓地が移動したとしても、寺地体は廃止されていないので「昔寺があった」とも語り継がれないですね。

 あくまで仮説です。そもそも『事典』の著者がどういう資料を見て札所のリストを作ったのかもわからないので、たぶんこうだろうと想像するしかありません。

弘法大師 空海 密教