東葛西・自性院
東葛西・自性院は南葛「南回り」の第十四番札所です。門前に「南葛新四国八十八箇所之内第十四番札所」と刻まれた石柱があります。また昭和初期に作られた別の霊場巡りの二十一番でもあります。
【札所番号】
南回り:第十四番
謎(葛西):第二十一番(文字が不明瞭なので違う可能性も)
【札所名】自性院(真言宗豊山派)
【所在地】
旧番地等 | 江戸川区長島町199 | |
現在の地名 | 江戸川区東葛西2-30-20 |
# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。
【御詠歌(南回り14)】
【南回り次の札所】
第十五番、東葛西・梵音寺
当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。
「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。
石に書かれた文字は光の加減で読めたり読めなかったりすることがあり、初回訪問時には読めなかったのですが、門前にある石碑に「第十四番札所」の文字を確認しました。これは南葛八十八箇所「南回り」の札所番号です。詳しくは本文の終わりに追記します。
ここより、初回訪問時に書いた本文
東葛西・自性院は南葛八十八ヶ所「南回り」の第十四番札所とされていますが、やはりこちらのお寺にも南回り固有のものはなさそうでした。 # 後日再訪して門前の石柱に「第十四番」の文字があることを確認しました。詳しくは本文下に追記します。
大師堂があり、二体の大師像が納められています。向かって右が弘法大師、左は興教大師です。弘法大師像は平たい台座に「第廿壹番(二十一番)」と刻まれています。台座に造立年などはなさそうだったのですが、清光寺にあるのと同じ型に見えるので、昭和26年ごろのものかなと思います。# 後日訪問して、興教大師像の柱状台座の脇面に、細かく漢文で何か書いてあるのはみつけたのですが、影になっているためスマホでは上手く写らず、内容まではよくわかりませんでした。
葛西地区には番号の入った大師像が点在しているのですが、わたしが見つけたものは上の図のように二種類ありました。ひとつは昭和8年ごろに作られたもので、もうひとつは昭和26年ごろのものです。この二種類は今のところ番号がかぶっていないので、時期は違うものの同じシリーズだろうと思います。おそらく古いものが破損するなどしたため作り直したのではないでしょうか。>謎の札所(葛西〜船堀地区に集中)のリスト - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場
これらの大師像は、当ブログで注目している南葛八十八ヶ所「南回り」とは番号が一致しないため、まったく別の霊場巡りのものです。
そして、こちらのお寺にも「南回り」にまつわるものはなさそうでした。わたしが便宜上「南回り」と呼んでいる霊場巡りは、東京弘山講が明治43年ごろに開創した八十八ヶ所霊場巡りです。東葛西・自性院は第十四番札所とされています。 # 注意!後日再訪して、門前の石碑が「南回り」のものであることを確認しました。詳しくは本文末に追記
上の写真は門前にある石柱で、同じ形式のものが近くの智光院にもあります。智光院のものには脇面に「為弘法大師一千百年…(以下読めず)」とあるので、1934年(昭和9年)の弘法大師1100年遠忌のために立てられたものだとわかります。自性院のものには造立年がなさそうなのですが、デザインがほぼ同じなので同時期に作られたものだと思います。堂内の大師像とセットで作られて、石柱のほうは道案内として門前などに設置されたものかなあと思います。
自性院のものには南葛新四国と書かれているようなので、一瞬「これはまさか南回りの?!」と思ったのですが、南葛という言葉は特殊なものではないので、ほかの霊場巡りに使われていたとしても不思議はありません。現に当ブログは二系統の「南葛八十八ヶ所」に注目して霊場巡りをしているわけですから…
…ってことは、この葛西地区の大師巡りが第三の南葛八十八ヶ所である可能性もあるということでしょうか。葛西地区昭和初期のこのシリーズは、なんと呼ばれている霊場巡りなのか現在わからないんですが、自性院の石柱にしたがうなら「南葛新四国八十八ヶ所」とかの可能性があります。あー…もっと全貌が見えてきたらブログタイトルを変えなきゃいけないかもねー(笑)
ここより再訪後に追記 2021.11.08
第三の南葛八十八箇所か、などと本文に書いてしまいましたが、それは完全に間違いでした。門前の石柱をもう一度確認しに行ったところ「南葛新四国八十八箇所之内第十四番札所」と刻まれているのを確認しました。これは「南回り」の石碑です。ただし東京弘山講が建てた物ではないと思います。
脇面と背面には何も刻まれていませんが、東葛西・智光院にある同じ形式の石柱に「為弘法大師一千百年…」とあるため、昭和9年(1934年)の弘法大師1100年遠忌に際して作られたものです。
詳しくは智光院のほうに追記しましたのでそちらもご覧ください。東京弘山講そのものはそう長く活動しなかった可能性が高いのですが、南葛八十八ヶ所(南回り)そのものは昭和の初め頃までどこが札所なのかちゃんと認識している人がいたということです。