二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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南葛八十八ヶ所「南回り」の地図と、南回りにまつわるもののまとめ

 以下は、二系統ある南葛八十八ヶ所のうち、東小松川・善照寺を第一番とする「南回り」の札所をまとめたものです。「いろは大師」の札所は別の地図にまとめてあります。>南葛八十八ヶ所(いろは大師)札所の地図 - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場



 札所のリストは下町タイムス社『江戸・東京名所事典』という平成元年出版の本を典拠にしています(以下『事典』と略します)。

  • 黄色いポイントは、南回りの札所であることは間違いなさそうだが固有のものはない。
  • 赤いポイントは、南回りの番号入りの石碑かご詠歌の扁額がある。
  • ?のポイントは現存しない札所。
  • 青い×の札所は『事典』でそこを札所としているが疑わしい。または、わたしが候補としてあげたもののやっぱり疑わしい場所。
  • 太めのラインは札所を番号順に大ざっぱに結んだもので、1〜62までを黒、63〜66の千葉県エリアを青、67〜88までを緑にしてあります。
  • 細いラインは『事典』の説に従うと不自然な移動をしてしまう、というような時に引いてあります。

 なお、この霊場巡りは現在活動していないため、お寺によっては札所だったことさえご存知ない可能性もあります。

南回りという名称

 わたしが「南回り」と呼んでいるものは、東小松川・善照寺を第一番として、主に江戸川区内を回るものです。明治43年ごろに東京弘山講が開創しました。一般には「南葛八十八ヶ所」「新四国南葛八十八ヶ所」「南葛八十八箇所」などと呼ばれています。

 しかしこの名称だと奥戸・善紹寺を第一番とする同名の霊場巡りとまぎらわしく、呼び分けるために南葛「南回り」と呼んでいます。「南回り」はあくまで当ブログで便宜上つけた呼び名ですのでご注意ください。

東京弘山講とは

 南回りを開創した講の名前という以外、今のところなんの情報もありません。瑞江地区に明治43年の石碑が複数あり、弘山講の名前が入ったものとしてはそれが最古なので霊場の開創もその頃だろうと考えています。東葛西・昇覚寺に大正○年(年は読めない)の奉納年が入ったご詠歌の扁額があり、それが最新の活動記録となります。

南回り固有のものとして何が残っているか

 2021年11月現在、わたしはすべての札所をまわってみましたが、南回りの札所の圧倒的多数には何もありません。お寺があるだけです。それでもいくつかの寺には、あきらかに南回りのものとわかるものが残っています。

明治43年の石碑(東京弘山講)


 図のようなものが東瑞江に2例、江戸川区江戸川に1例ありました。東京弘山講の名が入ったものではこれが最古の例で、南回りが開創されたのもこの頃だと思われます。漢数字が大字か小字かなどの違いはありますが、3例ともほとんど同じような作りになってます。

 数字の大字というのは 壱(壹)、弐(貳)、参、拾…のような文字です。旧字体ではありません。4以降もあるんですがあまり使わない。小字は普段使ってる漢数字ですね。一、二、三、十…

御詠歌の扁額(東京弘山講)


 このような木の板で、文字と枠の部分が陰刻になっています。もともとは文字は白く、枠は青緑で塗られていたようですが、色が抜けてしまっているものもあります。東葛西領八十八箇所の扁額とパッと見似ているのですが、南回りのものは「東京弘山講」という講名が必ず入っています。
 これまでにみつかった例では「明治四十五年五月納」書かれているものがほとんどで、東葛西・昇覚寺のものだけ「大正■年七月納」と刻まれています。■の部分は劣化していて断言しにくいのですが「五年」のような気がします。
 この扁額は、すべての札所に納める予定だったに違いないのですが、現在残っているのは以下の7件のみ(わたしが取りこぼしていなければ)と、あまりにも少なく、経年劣化や戦災などで失われたにしては少なすぎるような気がしています。明治45年に奉納が始まり、何かの理由で中断し、大正時代に再開したものの、あまり続かなかったのではないかと想像しています。

昭和9年の石碑


 このタイプは東葛西で2例みつけました。どちらにも東京弘山講の文字はありません。智光院のものに「為弘法大師一千百年…」と刻まれているので昭和9年(1934年)のものだとわかります。おそらく、この頃すでに東京弘山講は活動しておらず、札所であることを記憶していた地元の方々が建てたのではないかと思います。

造立年を確認できなかった石碑


 1例は西一之江で、もう1例は東小松川でみつけました。この2例は距離が離れており、セットで作ったとも思いにくいのですが、なんとなく似た雰囲気があります。どちらにも見える面には造立年がなく、東京弘山講の文字もありませんが、南回りの札所番号と一致します。

 東小松川のものは地面に固定されており、背面に小屋があるため後ろにまわってみることができませんでした。手でふれると何か書いてあるようにも思います。

 西一之江のものは植え込みに立てかけてあり、固定はされていなかったのですが、それなりに重さもあるため、裏を見るために倒したら戻せないかもしれないと思いやめておきました(許可もとっていませんし)。手でふれると、やはり何か書いてあるような気がします。

大師堂

 南回りの札所は、一部が別の霊場巡りとかぶっています。そのため大師堂がある札所はそれなりにあるのですが、そのほとんどは安置されているお大師様の造立年や札所番号から南回りのものではないことがわかっています。
 しかし、以下の 3例は南回りのために作られた大師堂かもしれません。

 これら3例は、南回りのために作られた大師堂「かもしれない」のですが、中に安置されている大師像は番号無しの石像だったり、小さな木製だったりと一定せず、そもそも札所のために作られたものではないかもしれません。

情報提供のおねがい

 以上のようなものが「南回り」固有のものとして残っているのですが、わたしはあくまで境内を見てまわり、わかる範囲で調査しています。石碑の類いだと墓地内の片隅や寺の裏などにあると見のがしている可能性もあります。御詠歌の扁額も本堂などにしまわれている可能性が否定できません。

 もしここにあげたもの以外で南回りのものと思われる何かをご存知の方はコメントに残していただければ幸いです。ログインしなくても書き込めます。もしはてなのアカウントでログインしてコメントすれば、わたしから返信をさしあげた際にメールで通知されると思います。残念ながら画像は貼れません。

 その他連絡先は、このブログについて - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場 を見てください。よろしくお願いします。

弘法大師 空海 密教