押上・正観寺
押上の正観寺は、南葛「いろは大師」の第六十七番札所です。南葛「南回り」の第十九番札所とする資料もありますが、疑義が有ります。
【札所番号】
いろは大師:第六十七番(三豊郡辻村・小松尾寺の写)
南回り:第十九番
# 南回り十九番とするのは下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』による。順路的に不自然なため、誤りの可能性も考えられる。
【札所名】正観寺(天台宗)
【所在地】
旧地名 | 向島区請地町 |
現在の地名 | 墨田区押上3-32-4 |
【御詠歌(いろは大師67)】
うへおきし こまつをでらを ながむれば のりのおしへの かぜぞふきぬる
【いろは大師、次の札所】
六十二番円通寺へ五丁半
【南回り、次の札所】
第二十番、江戸川区・称専寺
# 『江戸・東京札所事典』は江戸川区内のどこかで不明としているが、順路的に東葛西一丁目の称専寺である可能性が高い。
正観寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の六十七番です。大師堂内の像は第六十七番の台座に載せられているのでいろは大師のものだとわかります。いろは大師は大正14年に恵心和尚が開創し、大心講が昭和61年ごろまで送り大師などの行事を行っていました。現在は各地の住民が札所のお世話をしている場合もありますが、講としてはほぼ活動していないようです。
ところで、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』は、正観寺を南葛八十八ヶ所南回りの十九番としています。いろは大師と同じく南葛八十八ヶ所と呼ばれていますが、南回りは東京弘山講が明治43年に開創したまったく別の霊場めぐりです。
その、南回りの十九番。これにはちょっと疑問があります。
南回りは順路がおおむね番号順になっていて、五番から十八番までずっと江戸川区内で続いており歩いてめぐれるようになっています。それが十九番でいきなり直線距離で 7km も離れた墨田区押上のこのお寺に飛び、二十番からまた 7km ほど離れた江戸川区内に戻るのですが、一ヶ所だけ遠くに移動するのはどうもおかしいんですよね。
正観寺が移転した可能性も考えたのですが、天台宗東京教区のサイトを見ても移転については書かれておらず、江戸時代の『新編武蔵国風土記稿』の請地村の項目にすでに正観寺がある事からも大きな移転はないと考えられます。
では南回りの十九番は一体どこなのか。これがまったく分からないのですよね。江戸川区内には現在「正観寺」はなさそうですし、似た名前の寺としても順路として矛盾のない場所にはなさそうです。
いろは大師と違い、南回りは大師像の造立を行わなかったようなので、痕跡があるとすれば札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額くらい。木なので戦災にでもあえば燃えてしまいますし、そうでなくても風雨で損なわれて片づけられてしまう可能性が高いのです。
今となっては「下町タイムス社の本では押上(旧・請地村)の正観寺が十九番とされている」としか言えない状態です。
南回りは東京弘山講が明治43年に開創して送り大師などの行事をしていたはずなので、当時の案内などの資料がどこからか出てくれば謎が解けるかもしれません。
追記:南回りの第19番について
下町タイムス社『江戸・東京札所事典』は、札所愛あふれる良書であることは間違いないんですが、南葛南回りに関して言うと情報が怪しい点が多いです。
a. 不明と書かれているが、順路上矛盾のない場所を探すと同名の寺がある。
b. 寺の名前が違う(東学寺と東覚寺を取り違えるなど)
c. 所番地まで書いてあるが、地図上にマークしてみると有りえない遠くの寺で、順路に近い場所に同名の寺がある。
d. 所番地まで書いてあるが、地図上にマークしてみると有りえない遠くの寺で、順路に近い場所にも同盟の寺がない。
e. 所在地が不明で、寺名で探してもそういう寺が近くにない。
南回り:第十九番は d の例で、『事典』には押上とあるんですが、18番は江戸川区東葛西、20番は江戸川区江戸川なのに、いきなり墨田区押上に飛ぶのはおかしい。しかし順路として矛盾のない場所に正観寺というお寺がありません。
寺の名前から違っている可能性は否定できませんが、南回りの札所は近隣の寺をほとんど網羅しているのでそれはないでしょう。
廃寺になった可能性も考えました。それなら江戸時代末期くらいの記録には載っていそうなものですが(南回りは明治末期の開創)、幕末の『葛西志』を見てもこのあたりに正観寺という寺はなさそうでした。
あとは、ちゃんとした寺じゃなかった、という可能性もあります。ちゃんとしたっていうのも変な話ですが、たとえば墓地にあるお堂で○○寺と呼ばれてはいるんだけれど、住職はいなくて、どこか近くのお寺で管理してるお堂とかだと、古記録には残らない場合もあります。
あるいは、お寺を持っていないお坊さんが自宅を○○寺と呼んで地元の人に説法をしていた。というような事もあるかもしれません。
すべては「かもしれない」であって、やはり結論としては「わからない」となります。『事典』の著者がどんな資料を見て、どんな調査をして札所のリストを作ったのか知りたいところなのですが、なにぶん古い本で著者が御存命かもわかりません。出版社の下町タイムスもだいぶ前に活動を終えているようですから、今となっては手がかりがありません。