二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

平井・安養寺

 平井の安養寺は、南葛「いろは大師」第七十四、八十一、八十二番であり、南葛「南回り」の第七十番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第七十四番(仲多度郡筆岡村・甲山寺の写)
いろは大師:第八十一番(綾歌郡松山村・白峰寺の写)
いろは大師:第八十二番(香川郡下笠居村・根香寺の写)

南回り:第七十番

【札所名】安養寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 江戸川区中平井町
現在の地名 江戸川区平井6-53-1

【御詠歌(いろは大師74)】本尊薬師如来
十二神 みかたにもてる いくさには おのれとこゝろ かぶとやまかな

【御詠歌(いろは大師81)】本尊千手観音
しもさむく つゆしろたへの てらのうち みなをとなふる のりのこゑごゑ

【御詠歌(いろは大師82)】本尊千手観音
よひのまの たへふるしもの きへぬれば あとこそかねの ごんぎやうのこゑ

【いろは大師、次の札所】
(七十四番から)同町内八十二番へ一丁
(八十二番から)同町内八十一番へ二丁七分
(八十一番から)五十一番平井聖天・灯明寺へ八丁
# この順路は大心講編纂の『御詠歌集』(昭和54年版)によります。安養寺境内にある標石には(74→)82→81→69と進む道順と里程が記されています。現在は74、82、81は同じ場所にあります。詳しくは本文にて。

【南回り、次の札所】
第七十一番、平井聖天・燈明寺(灯明寺)



 

平井・安養寺の門前より三つの大師堂

 平井の安養寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の七十四番、八十一番、八十二番札所です。また、同名の霊場巡り南葛八十八ヶ所南回りの七十番でもあります。境内の大師堂等はすべていろは大師のもので、南回りの痕跡はみつけられませんでした。

 現在、大師堂は境内に入ってすぐに三つ並んで建っていますが、大心講の『御詠歌集』によれば、七十四から八十二へ一丁(約109m)、八十二から八十一へ二丁七分(約300m)とあり、もともと安養寺境内にあったのは七十四番で、ほかは近くの路辺もしくは墓地などにあったのではないかと思われます。

南葛いろは大師第七十四番大師像ともう一体の大師像

 七十四番のお堂には大師像が二体ありあす。後ろにあるのが番号の台座にのっていて、いろは大師のものです。手前の大師像はなんのために作られた像なのかはちょっとわかりません。向かって右奥の小さな厨子におさめられているのは、四国七十四番甲山寺のご本尊様で薬師如来だと思います(よく見ると手に薬鉢を持ってる)。

手前の大師像の前にたてかけられた御詠歌の石版

 手前の大師像の前には御詠歌が刻まれた石版が立て掛けられていました。霊場巡りの札所に奉納する扁額には、四国の同じ番号のお寺の御詠歌を書く事が多いんですが、この石版には「ありがたや おがむこゝろは あんようじ しゆごをたのめよ だいしまします」と刻まれています。このお寺の名前「あんようじ」が詠みこまれているので当寺オリジナルの御詠歌っぽいですね。ご住職か信徒さんのどなたかの作かもしれないです。
 

南葛いろは大師第八十二番大師像

 番号が前後しますが、昔の順路ならば次が八十二番。堂内には大師像が一体、八十二の台座に安置されています。右の小さな厨子の中には四国の八十二番・根香寺のご本尊様である千手観音が納められています。

 こちらは番号の台座の下にもうひとつ台座があって、前面に「上平井大師講/第八十二番」の文字とともに講のメンバーと思われる方々の名前がずらっと刻まれています。
 

南葛いろは大師第八十一番大師像

 そしてこちらがいろは大師八十一番の大師像です。八十二番と同様、一番下の台座の前面に「上平井大師講/八十二番/(以下講メンバーの方々のお名前)」が刻まれています。講の名前は同じみたいですが、刻まれている個人名は別みたいですね。大師像のデザインも違うようです。
 

三つの札所番号が刻まれている石碑(大正15年建立とある)

 お堂の外には石碑もありました。この板状の石碑には三つの札所番号があり、遍照講という講名も刻まれています。大正十五年建立ともありますが、石碑そのものの建立年なのか、お堂ができたのが15年だと言ってるのか、そこらへんはよくわかりません。いろは大師の開創そのものは大正14年ですし、番号の台座には14年と刻まれてる事が多いです(すべてを見られたわけじゃないのですが)。

南葛新四国八十八ヶ所発起人
第八十一番
第七十四番 霊場
第八十二番
大正十五年十一月建立

遍照講世話人
(福島さん以下個人名たくさん)
講元 並木佐平
副講元 鈴木啓次郎

 

塔状の石碑。標石として建てられたもののようだ。

 もうひとつ、石塔状の碑もありました。こちらは存在に気づいてなくて、お堂の写真のわきに写ってたのをトリミングしたため、変な写真になっててすみません。家から遠いもので、そうそう簡単には撮り直しにいけません。この標石はどうやら大正14年の開創当時の道順を示したもののようです。

南葛新四国
八十八ヶ所

 ↑ 第六十九番へ六丁
第八十一番之霊所
 ↓ 第八十二番へ二丁半

 こんな感じに刻まれていて、番号から考えていろは大師の道案内には違いないんですが、八十一番の前が六十九番と書いてあるのですよね(七十四番じゃなくて!)。

 六十九番は東墨田の万福寺です。安養寺からだと十丁以上あると思います。ということは、八十一番は安養寺よりも500mくらい北のほうにあったってことでしょうね。そして、安養寺と八十一番の間に八十二番があったわけです。

 なぜそれが撤去されて安養寺にあるかというと、おそらく荒川放水路の工事によるものでしょう。

安養寺と万福寺の位置関係(地図)

 たぶん、開創当時は七十四番安養寺から二丁ばかり北の路辺に八十二番、さらに三丁ばかり北の路辺に八十一番があって、その次が万福寺の六十九番だったんだろうと思います。もとの場所はたぶん荒川河川敷きのどこかでしょう。

今昔マップ・旧中平井町付近、大正時代の地図
↑ここで昔の地図も見られます。お寺の名前などは表示されないのでgoogle地図と突き合わせて考えないといけないんですけどねー。

平井聖天・燈明寺(灯明寺)

 平井聖天・燈明寺は、南葛「いろは大師」の第五十一、六十五番であり、南葛「南回り」の第七十一番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第五十一番(温泉郡道後村大字石手・石手寺の写)
いろは大師:第六十五番(宇摩郡金田村・三角寺の写)

南回り:第七十一番

【札所名】燈明寺(新義真言宗

【所在地】

旧地名 江戸川区下平井町
現在の地名 江戸川区平井6-17-30

【御詠歌(いろは大師51)】
さいほうを よそとはみまじ あんやうの てらにまいりて うくるぢうらく

【御詠歌(いろは大師65)】
おそろしや 三つのかどにも いるならば こゝろをまろく みだをたのめよ

【いろは大師、次の札所】
八十五番北向地蔵堂境内へ六丁

【南回り、次の札所】
第七十二番、平井・正養寺



 

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南葛いろは大師第五十一番と第六十五番の大師像

 平井の聖天様こと灯明寺(燈明寺)は南葛八十八ヶ所いろは大師の五十一番ならびに六十五番です。また、同名の霊場めぐりである南葛八十八ヶ所南回りの七十一番でもあります。

 いろは大師(大正14年開創)と南回り(明治43年開創)は、作った講も順路もまるて違う別の霊場めぐりです。両方とも南葛八十八ヶ所(新四国南葛八十八ヶ所、南葛新四国八十八ヶ所など表記に揺れはある)と呼ばれているため、当ブログでは「いろは大師」「南回り」と呼び分けています。詳しくは 目次のページいろは大師の由来のページ などをご覧ください。

 像は境内入り口の花壇に置かれており、お堂はありません。それぞれ番号の台座に安置されているのでいろは大師のものだとわかります。

 南回りは大師像の造立などは行わなかったようで、多くの札所には痕跡が残っていません。このお寺にもふらっと立ちよって見られる場所に痕跡はありませんでした(運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ扁額が納められていることがある)。

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二体の大師像はよく見るとデザインが違う。

 二体ならんでいて、向かって右側が五十一番、左側が六十五番です。大きさが少し違うのと、衣の表現がそれぞれ違うので、別の石工さんに頼んで作ったものだと思います。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』には、六十五番は灯明寺の釈迦堂墓地内と書いてあるので、もとは境内の別の場所にあったものだと思います。

 堂内ではないため、花壇を荒らさないようにそっと裏へ回ったりして台座の文字を読もうとしたんですが、像同士の間があまりなかったり、土をかぶっていたりし、光の関係でよく見えなかったりと、案外厳しかったです。以下読めた部分のみ。■は読めなかった文字です。


五十一番の台座

【向かって右面】
 納人
 本田村大…(かすれているが地名)
 (個人名、かすれている)
 佐…(個人名、かすれている)
 絵…(個人名、かすれている)
 吉…(個人名、かすれている)
 菊田文五郎?(ややかすれ)

【向かって左面】
 下平井
 主任  鈴木■吉
 副   鈴木初■郎
 副   ■越■…(隣りの台座のかげ)
 世話人 鈴木仙…(同)
 〃   佐藤仁…(同)
 〃   鈴木…(同)
 〃   …(同)

【裏面】
 (全体に土で汚れていてよく読めない。多数の人名と「発起人」「大正」などの文字が見える)

 
六十五番の台座

【向かって右面】
(隣りの像との隙間が狭くて読めず)

【向かって左面】
   平井世話人
   ■村嘉吉
   高橋五郎三郎
   遠藤斧吉
   田口常三郎
副  岩田三…(隣りの像のかげになり読めず)
■人 岩田秋…(同)
   島村幸…(同)
   鈴木甚五…(同)
   鈴木市五…(同)
   鈴木周…(同)
   島村…(同)
   …(同)

【裏面】
(文字はないように見えるが、土を払い落とさないとわからない)

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像の裏面

 この写真は文字を読むために写したもので、花壇をあらさないように足場にも気を使っているので写りは最悪ですが、こういうのを画像処理したりして頑張って読んでいます。五十一番の像は背面が平らで何かにくっつけてあった跡みたいなのがありますね。
 
 

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本堂近くの大師像。下の鉢に享保の文字がある。

 この写真はいろは大師とは関係なくて、本堂近くにあったものを写しました。たぶんもともとは下の鉢に水を張って手水にしていたのか、あるいはお大師様に水をかけて供養するためのものだったかもしれません。今は水は入っていませんでした。鉢の脇に「享保…」と刻まれているので江戸時代中期のものですね。これもなかなか古くて貴重なものなので、大心講で指定されたものじゃないですが、心の番外としておきたいと思います^^;

墨田区立花・北向地蔵堂境内(東漸寺)

 墨田区立花の東漸寺は南葛「いろは大師」の第八十五番札所ですが、大師堂はお寺の近くにある北向地蔵堂境内にあります。



【札所番号】
いろは大師:第八十五番(喜多郡牟礼村八栗寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。牟礼村は木田郡でしょうか。

【札所名】東漸寺(天台宗
# 大心講の『御詠歌集』には東禅寺とありますが、誤植だろうと思います。
# 現在は東漸寺境内ではなく、近くにある北向地蔵堂の境内にあります。東漸寺持ちの地蔵堂なのかもしれないですが詳細は不明です。

【所在地】

旧地名 向島区葛西川
現在の地名 墨田区立花6-17-4

#これは東漸寺の住所です。北向地蔵堂墨田区立花6-10 です。

【御詠歌(いろは大師85)】
ぼんのふを むねの智火にて やくりをば しゆぎやうじやならで たれかしるべき

【いろは大師、次の札所】
七十一番明源寺へ十丁



 

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東漸寺

 いろは大師を開創した大心講の『御詠歌集』によれば、いろは大師の第八十五番は墨田区立花六丁目(旧・向島区葛西川)の東禅寺とありますが、おそらく東漸寺の誤植かと思います。

 ただ、大師堂そのものはすぐ近くにある北向地蔵堂の境内にあります。今は敷地が繋がっていたりはしないのですが、たぶん東漸寺持ちの地蔵堂なんだと思います(違ってたらごめんなさい)。

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北向地蔵堂境内の大師堂
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南葛いろは大師第八十五番大師像
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北向地蔵堂。お堂が南を背にして北向きに建てられている。
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堂内の地蔵群。大きなお地蔵様は塩かなにかでこすられたのか下半身が溶けたようになっている。

 お寺は北を背にして南向きに建てるか、西を背にして東向きに建てることが多いです。

 北は天のうちで北極星だけが不動なので(ほんとはちょっとだけ動くんだけど)不動の地位を象徴します。平城京平安京天皇が住む内裏が一番北にあって南向きに建ってるのはそのためです。南向きのお寺は、ご本尊様を何よりも尊いものとして上座に安置しているわけですね。

 西を背にして東向きのお寺というのも沢山あります。この場合だと、おそらく阿弥陀如来が作った国(極楽浄土)が世界のはるか西にあるという思想と関係があるかもしれません。浄土の方角を向いて仏様を礼拝するわけです。

 ただ、例外はあります。たとえば柴又の帝釈天などは東を背にして西向きに建てられています。事情はよくわかりません。「北向」地蔵尊も全国にありますね。

明源寺

 墨田区橘の明源寺は南葛「いろは大師」の第七十一番札所です。


【札所番号】
いろは大師:第七十一番(三豊郡大見村大字彌谷・彌谷寺の写)

【札所名】明源寺(曹洞宗

【所在地】

旧地名 向島区小村井町
現在の地名 墨田区立花1-13-10

【御詠歌(いろは大師71)】
あくにんと ゆきつれなんも いやだにじ たゞかりそめも よきともぞよき

【いろは大師、次の札所】
六十六番六阿弥陀常光寺へ十丁# 現在は六阿弥陀常光寺ではなく、その次の龍光寺に安置されている。



 

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明源寺の大師堂
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南葛いろは大師第七十一番大師像

 明源寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の七十一番です。堂内の大師像は七十一番の台座に載っており、いろは大師のものだとわかります。

 明源寺は曹洞宗のお寺です。弘法大師真言宗の日本における開祖なので、いわば宗派違いです。こちらのお寺だけでなく真言宗以外のお寺が札所となっている場合がけっこうあります。いろは大師も、南回りも。

 なんでも、霊場のオリジナルである四国の八十八ヶ所もすべてが真言宗のお寺ではないんだそうです。てっきり四国の霊場はすべてが真言宗かと思っていました。調べてみなきゃわからなことってけっこうあるものですね! 

六阿弥陀常光寺(元六十六番)

 亀戸の常光寺は南葛「いろは大師」の第六十六番札所でしたが、大師像は現在ここちらにはなく、次の札所である龍光寺にあります。常光寺は江戸六阿弥陀のひとつでもあります。



【札所番号】
いろは大師:第六十六番(三好郡大字白地・雲辺寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。白地は三好郡佐馬地村大字白地でしょうか。

江戸六阿弥陀:第六番

【札所名】常光寺(曹洞宗

【所在地】

旧地名 城東区亀戸町
現在の地名 江東区亀戸4-46 常光寺

【御詠歌(いろは大師66)】
はるばると くものほとりの てらにきて つきひをいまは ふもとにぞみる

【いろは大師、次の札所】
四十六番龍光寺へ五丁



 
 ここは "元"六十六番 です。大心講の『御詠歌集』には六十六番は亀戸四丁目・六阿弥陀常光寺とあります。
 ただ、現在ここには大師堂も大師像もなく、現在は四十六番と一緒に次の札所である龍光寺に安置されています。
 
 
 
 お寺の宗派が曹洞宗ということもあり大師像はないのですが、境内にほかであまり見かけない庚申供養塔(というか青面金剛像)があります。

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常光寺の青面金剛像(庚申供養塔)
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青面金剛像上半身
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青面金剛像、台座の一部

 庚申供養塔は、長方形や将棋の駒形の石版に青面金剛や三猿をレリーフにしたものが多いです。こちらのは板ではなく、青面金剛を丸彫りにしてあります。

 最初なんの像かわからなかったのですが、台座に「庚申」と刻まれている事や、腕が三対(六臂)あって、輪、羂索、弓・矢などの持物、大きな口に上を向いた牙などを見ると、やはり青面金剛なんだなと思います。

 台座にある造立年は、天和三癸亥歳五月でしょうか。かすれているので間違っていると申し訳ないですが、もしあっているなら1683年ですから、かなり古いものです。像の体にも「南横川」「刕木(村?)」など地名らしき文字が刻まれているのですが、このへんの旧地名をあまり知らないのでよくわかりませんでした。
 

龍光寺(竜光寺)

 亀戸の龍光寺は南葛「いろは大師」の第七十四番札所で、現在は第六十六番の大師像もちらにあります。荒川辺の第七十四番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第四十六番(温泉郡坂本村浄瑠璃寺の写)
いろは大師:第六十六番(三好郡大字白地・雲辺寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。白地は三好郡佐馬地村大字白地でしょうか。

荒川辺:第七十四番

【札所名】龍光寺(真言宗智山派

【所在地】

旧地名 城東区亀戸町
現在の地名 江東区亀戸3-56-14

【御詠歌(いろは大師46)】
ごくらくの じやうるりせかい たくらへば うくるくらくは むくひならまじ

【御詠歌(いろは大師66)】
はるばると くものほとりの てらにきて つきひをいまは ふもとにぞみる

【いろは大師、次の札所】
六十七番正観寺へ十二丁



 

龍光寺の大師堂(左奥のお堂)。手間の石碑には厄除弘法大師と刻まれている。
龍光寺大師堂
大師堂の軒下に掲げられた板。第四十六番、第六十六番とある。
南葛いろは大師第四十六番、六十六番大師像

 亀戸の龍光寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の第四十六番です。大心講の『御詠歌集』には、六十六番は近くの常光寺とあるので、もともとは四十六番だけがこのお寺にあったはずです。それがどういう事情なのかはわかりませんが、現在は両方とも龍光寺にあります。

 堂内には大師像が二体あるのですが、番号の台座はなく、お堂の軒下に掲げられた板に「南葛八十八ヶ所/第四十六番/第六十六番」と記されており、それでいろは大師の札所であることがわかります。

 大師像はどちらも真っ黒にすすけてあちこち欠けています。頭も表情がわからないほど欠けて、おそらく首から落ちてしまったのをすげ直してあると思います。事情はよくわからないのですが、何かひどいことがあったのだと思います。いろは大師は大正14年の開創なので関東大震災の後のものです。もしかすると戦災にあったものでしょうか。

【追記】南葛いろは大師の研究をされている田辺さん(19番前西のお世話もなさっていると聞いています)という方が葛飾区立図書館に納められた資料(新四国八十八ケ所霊場地絵地図)によると、こちらのお大師様は空襲で焼けてしまったものを修復したということです。また田辺さんと親しい研究家の小川さんによれば、お堂は田辺さんが寄進されたものとのことです。追記ここまで。2022年7月

 次の札所である正観寺までは北十間川のほとりを歩きます。途中、十間橋を渡る際に、運がいいと逆さスカイツリーが見られるかもしれません。スカイツリーは大きすぎてスマホのレンズでは一画面に収まりませんでした。下の写真はパノラマ撮影したものなので歪んでいますが、青空に映えるスカイツリーと、川面に映る逆さまのスカイツリーが見られ、なかなかの絶景です。

北十間川に映る東京スカイツリー(パノラマ撮影)

追記:境内の「厄除弘法大師」の石碑 2022年11月12日

 近くへ行くチャンスがあったので、ちょっと気になっていた厄除弘法大師の石碑の造立年を確認してきました。塀の近くに立てられているので裏面が見えないのですが、スマホを入れて部分的にあちこち写してみたところ「明和…」の文字が写っていたので江戸時代のものだとわかりました。大正時代開創のいろは大師とは関係のない石碑ということになりますね。

龍光寺境内の「厄除弘法大師」の石碑
裏面の一部「明和」の文字が見える

 裏面には中央に「南無大師遍昭金剛」と刻まれていて、その右横に「明和…」と造立年がありますが、塀との隙間が狭すぎてそれ以上写りませんでした。

押上・正観寺

 押上の正観寺は、南葛「いろは大師」の第六十七番札所です。南葛「南回り」の第十九番札所とする資料もありますが、疑義が有ります。



【札所番号】
いろは大師:第六十七番(三豊郡辻村・小松尾寺の写)
南回り:第十九番
# 南回り十九番とするのは下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』による。順路的に不自然なため、誤りの可能性も考えられる。

【札所名】正観寺(天台宗

【所在地】

旧地名 向島区請地町
現在の地名 墨田区押上3-32-4

【御詠歌(いろは大師67)】
うへおきし こまつをでらを ながむれば のりのおしへの かぜぞふきぬる

【いろは大師、次の札所】
六十二番円通寺へ五丁半

【南回り、次の札所】
第二十番、江戸川区・称専寺
# 『江戸・東京札所事典』は江戸川区内のどこかで不明としているが、順路的に東葛西一丁目の称専寺である可能性が高い。



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正観寺の大師堂
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南葛いろは大師第六十七番大師像

 正観寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の六十七番です。大師堂内の像は第六十七番の台座に載せられているのでいろは大師のものだとわかります。いろは大師は大正14年に恵心和尚が開創し、大心講が昭和61年ごろまで送り大師などの行事を行っていました。現在は各地の住民が札所のお世話をしている場合もありますが、講としてはほぼ活動していないようです。

 ところで、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』は、正観寺を南葛八十八ヶ所南回りの十九番としています。いろは大師と同じく南葛八十八ヶ所と呼ばれていますが、南回りは東京弘山講が明治43年に開創したまったく別の霊場めぐりです。

 その、南回りの十九番。これにはちょっと疑問があります。

 南回りは順路がおおむね番号順になっていて、五番から十八番までずっと江戸川区内で続いており歩いてめぐれるようになっています。それが十九番でいきなり直線距離で 7km も離れた墨田区押上のこのお寺に飛び、二十番からまた 7km ほど離れた江戸川区内に戻るのですが、一ヶ所だけ遠くに移動するのはどうもおかしいんですよね。

 正観寺が移転した可能性も考えたのですが、天台宗東京教区のサイトを見ても移転については書かれておらず、江戸時代の『新編武蔵国風土記稿』の請地村の項目にすでに正観寺がある事からも大きな移転はないと考えられます。

 では南回りの十九番は一体どこなのか。これがまったく分からないのですよね。江戸川区内には現在「正観寺」はなさそうですし、似た名前の寺としても順路として矛盾のない場所にはなさそうです。

 いろは大師と違い、南回りは大師像の造立を行わなかったようなので、痕跡があるとすれば札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額くらい。木なので戦災にでもあえば燃えてしまいますし、そうでなくても風雨で損なわれて片づけられてしまう可能性が高いのです。

 今となっては「下町タイムス社の本では押上(旧・請地村)の正観寺が十九番とされている」としか言えない状態です。

 南回りは東京弘山講が明治43年に開創して送り大師などの行事をしていたはずなので、当時の案内などの資料がどこからか出てくれば謎が解けるかもしれません。

追記:南回りの第19番について

 下町タイムス社『江戸・東京札所事典』は、札所愛あふれる良書であることは間違いないんですが、南葛南回りに関して言うと情報が怪しい点が多いです。

a. 不明と書かれているが、順路上矛盾のない場所を探すと同名の寺がある。
b. 寺の名前が違う(東学寺と東覚寺を取り違えるなど)
c. 所番地まで書いてあるが、地図上にマークしてみると有りえない遠くの寺で、順路に近い場所に同名の寺がある。
d. 所番地まで書いてあるが、地図上にマークしてみると有りえない遠くの寺で、順路に近い場所にも同盟の寺がない。
e. 所在地が不明で、寺名で探してもそういう寺が近くにない。

 南回り:第十九番は d の例で、『事典』には押上とあるんですが、18番は江戸川区東葛西、20番は江戸川区江戸川なのに、いきなり墨田区押上に飛ぶのはおかしい。しかし順路として矛盾のない場所に正観寺というお寺がありません。

 寺の名前から違っている可能性は否定できませんが、南回りの札所は近隣の寺をほとんど網羅しているのでそれはないでしょう。

 廃寺になった可能性も考えました。それなら江戸時代末期くらいの記録には載っていそうなものですが(南回りは明治末期の開創)、幕末の『葛西志』を見てもこのあたりに正観寺という寺はなさそうでした。

 あとは、ちゃんとした寺じゃなかった、という可能性もあります。ちゃんとしたっていうのも変な話ですが、たとえば墓地にあるお堂で○○寺と呼ばれてはいるんだけれど、住職はいなくて、どこか近くのお寺で管理してるお堂とかだと、古記録には残らない場合もあります。

 あるいは、お寺を持っていないお坊さんが自宅を○○寺と呼んで地元の人に説法をしていた。というような事もあるかもしれません。

 すべては「かもしれない」であって、やはり結論としては「わからない」となります。『事典』の著者がどんな資料を見て、どんな調査をして札所のリストを作ったのか知りたいところなのですが、なにぶん古い本で著者が御存命かもわかりません。出版社の下町タイムスもだいぶ前に活動を終えているようですから、今となっては手がかりがありません。

弘法大師 空海 密教