二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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医王寺

 柴又の医王寺は、南葛「いろは大師」の第五十七番札所です。また柴又七福神の恵比寿天でもあります。ほかに寛政四年の日付で「四国第七四番」「西国第九番」と刻まれた石碑があります。



【札所番号】
いろは大師:第五十七番(温泉郡鴨野村大字八幡・栄福寺の写)
# ( )内は『御詠歌集』に従っています。正しくは越智郡鴨部村?

未知の霊場巡り:第七十四番(讃岐国甲山寺の写) #寛政四年
柴又七福神の恵比寿天

東三十三ヶ所観音霊場:第十番
未知の三十三ヶ所霊場:第九番 #寛政四年

【札所名】医王寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾区柴又薬師
現在の地名 葛飾区柴又5-13

【御詠歌(いろは大師)】
このよには ゆみやをまもる やわたなり らいせはひとを すくふみだぶつ

【いろは大師、次への順路】
二十四番の三谷地蔵堂へ十一丁
#これは開創当時の三谷地蔵堂への距離で、現在の場所(北小岩八丁目八幡神社)までは七丁半くらい。

当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所めぐりに注目して札所となっているお寺や神社を参拝しています。

「南回り」「いろは大師」という呼称については目次のページをご覧ください。



 
 医王寺は南葛いろは大師の第五十七番にあたります。東三十三ヶ所観音霊場の第十番でもあり、柴又七福神の恵比寿天でもあります。

 ひとつ前の宝性院から徒歩数分。近いです。『葛飾区史』によれば、医王寺は大正四年の江戸川改修前はもっと川沿いにあったということです。改修工事は長期間続いていたはずなので、南葛いろは大師が作られた大正十四年ごろの寺の正確な位置はよくわかりません。現在の医王寺は、宝性寺から一丁半くらいなので「三丁」というのは昔の場所への距離かもしれないです。#次の札所への距離も今と大幅に違うのですが、それは三谷地蔵堂の項目を読んでください。

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医王寺の本堂と大師堂(左の大師像の下にある)
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南葛いろは大師第五十七番大師像

 医王寺の大師堂は本堂前の大きな弘法大師像の下の岩の中にあります。第五十七番の台座に載せられた石の像ですね。南葛いろは大師は、各札所に番号付きの台座と石の大師像があるのですが、そのデザインは各地でまちまちです。こちらの像は着物のひだが丁寧に刻まれていますね。

 ところで、南葛いろは大師は大正十四年に開創された比較的新しい霊場めぐりです。詳しくは 新四国南葛八十八ヶ所いろは大師の由来 - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場 を読んでください。

 ところがこのお寺には寛政四年の日付が刻まれた霊場めぐりの石碑があります。

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医王寺の石仏群と霊場めぐりの石碑(右端)
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寛政四年の石碑のスケッチ

 
 この石碑の向かって右脇面は観音霊場の案内です(正面の「西国九番」も観音霊場の案内になっています)。このブログは弘法大師霊場を扱うブログなので、注目したいのは正面の「四国第七四番/(種字bha讃岐国甲山寺写」の部分です。

 「この七十四番」がなんという霊場巡りの札所番号なのか、現在はっきりとはしないのですが、これまでに参拝した近隣のお寺に近い番号が刻まれた御詠歌の扁額が納められています。

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十念寺:七十八番の御詠歌を刻んだ扁額
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浄光院:第七十六番の御詠歌を刻んだ扁額

 これらには奉納された日付が刻まれていないため、これまでなんの手がかりもなかったのですが、医王寺の石碑にある「七十四番」と番号が近いので、ひょっとすると同じシリーズかもしれないですよね。

 これまだ推測の或を出ないのですが、もしかすると医王寺74・浄光院76・十念寺78は江戸時代・寛政年間に成立した「東葛西領八十八ヶ所」という霊場めぐりの札所かもしれません。この霊場めぐりは札所の詳細なリストが残っておらず、文久年間の『東葛西領八十八所詣ひとり案内』という文書で順路上の村名が分かる程度のおおまかな情報が残っているだけです。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』によれば、「南回り」は「東葛西領」の札所をベースに再編成して作られたんじゃないかということです。

 浄光院76・十念寺78の扁額はさすがに寛政年間までさかのぼれるほど古くはないと思うのですが、「南回り」が開創されるより少し前に作られたものなのかもしれないですよね。
 



【追記】未知の霊場について
 このブログは弘法大師霊場のほうに注目しているので、観音霊場の三十三ヶ所めぐりはまったくテキトーだったんですが、寛政四年の石碑にある「西国九番」も現在知られていない三十三ヶ所観音霊場のような気がしてきました。

 医王寺は東(あずま)三十三ヶの第十番なので、それ関連なのかなとも思っていたんですが、東は昭和10年京成電車が沿線のお寺と相談して企画されたもので、寛政四年の石碑に書いてあるのは完全に別ですね。

 そして、わたしは江戸川区江戸川の蓮華寺に、「西国十六番清水寺写」「四国第十一番藤井寺写」「寛政四壬子歳十一月」と刻まれた石碑を発見しました。

 これは間違いなく同じシリーズですね。寛政四年が一致しているのもですし、四国と西国を並べて書く形式も同じですから!
 

 下記のリンクは二系統の南葛八十八ヶ所をまわりながら見つけた、何に属するかわからない札所番号のリストです。石碑だったり、扁額だったりして、すべてが同じシリーズかどうかはまだわかりません。
nankatu.hatenablog.com

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