二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

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善紹寺

 奥戸・善紹寺は南葛「いろは大師」のうち、一番、四十八番、番外元大師の札所です。



【札所番号】
いろは大師:第一番(板野郡大字板東村・霊山寺の写)
いろは大師:第四十八番(温泉郡久米村大字高井・西林寺の写)
いろは大師:番外:元大師(いろは大師)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。霊山寺の所在地は、東村→坂東町大字坂東→大麻町大字坂東と変遷しており、何町なのかはっきりしなかったため字のみ書いているものと思われます。

【札所名】善紹寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸6-6

【御詠歌(いろは大師1)】本尊釈迦如来
りやうせんの しやかのみまへに めぐりきて よろづのつみも きへうせにけり

【御詠歌(いろは大師48)】本尊十一面観音
みだぶつの せかいをたづね ゆきたくば にしのはやしの てらへまいれよ

【御詠歌(いろは大師・元大師)】
のぼりはて 心の霧も はれぬべし 高野の山の 峰の嵐しに

なんかつに いろは大師が 自現して よろづの人を救ふ嬉しさ

【いろは大師:宇田川先達の御詠歌】
うだがわがいろは大師のいさほしわ 柱らのそこの石となりぬる

【御茶功徳御詠歌(古典)】
ありがたや お茶のくどくに みをやすめ このよのくどく のちのよのため

大日如来の御詠歌(弘法大師・作)】
阿字のこが 阿字のふるさと たちいでて またたちかへる 阿字のふるさと

【いろは大師、次の札所】
七番宝蔵院へ二丁半



 ネット情報は検索してヒットしたところから読むのが普通ですし、そこだけ読んで離脱するのも普通のことです。そのためあちこちに同じようなことを書いていますが、ここにあらためて当ブログの主旨を書いておきたいと思います。

 当ブログは「南葛八十八ヶ所」と呼ばれている八十八ヶ所霊場巡りに注目し、実際に札所をまわっています。この「南葛八十八ヶ所」ですが、実は同じ名前で二系統あります。

 ひとつは明治43年に東京弘山講が開創したものです。名称は「新四国南葛八十八ヶ所」「南葛新四国八十八ヶ所」など揺れがあり、どちらが正式ということもないようです。この霊場めぐりは大師像や大師堂の造立を行わなかったようで、札所とされているお寺には札所だった頃の名残は残っていない事が多いです。いくつかのお寺で札所番号と御詠歌、奉納した年月日(明治43〜45年くらいの)が刻まれた木製の扁額を見つけました。順路は旧南葛飾郡のうち主に江戸川区を通り、葛飾区、墨田区浦安市にも及んでいます。当ブログではこちらを「南回り」「南葛南回り」と呼んでいます。

 もうひとつは大正12〜14年にかけて、宇田川万太郎氏(恵心和尚)が開創した新四国南葛八十八ヶ所です。宇田川氏はもともと農夫だったそうですが、庭木の手入れ中に転落して枝で目をつき、何ヶ月も腫れ上がって膿を排出するような大けがをしました。しかし弘法大師におすがりすることであとかたもなく快癒し、その奇跡に感じて自宅に大師堂を建立し「いろは大師」と名付けたのが起源だそうです。その後旧南葛飾郡の51ヶ村に弘法大師霊場を開こうと発願し、札所は大正12年から段階的に開かれ、14年に八十八ヶ所の霊場巡りが完成しました。その後万太郎氏は出家して恵心和尚になり、大心講を作りました。後に講は息子の宇田川善紹氏にひきつがれ、昭和61年ごろまでは巡行大師を行っていたということです。順路は旧南葛飾郡のうち主に葛飾区を通り、江戸川区墨田区江東区、足立区の柳原(ここは昔葛飾区だった)に及んでいます。当ブログでは恵心和尚が最初に造立した大師像にちなんで「いろは大師」と呼んでいます(時々「北回り」と呼んでいるかもしれません)。

 これらの由来は大心講発行の昭和54年版『御詠歌集』、下町タイムス社平成元年発行の『江戸・東京札所事典』に書かれています。資料についてはいろは大師の由来などもご覧ください。

 さて、善紹寺ですが、これは南葛いろは大師の第一番札所であり、第四十八番札所であり、開創者の恵心和尚が最初に造立したいろは大師もここにあります。

善紹寺門前の大師堂
南葛八十八ヶ所第一番と書かれた表札
お堂の前にある足形の踏み石
南葛八十八ヶ所いろは大師第一番大師像
一番大師像の台座、向かって右面

 南葛いろは大師の第一番は、善紹寺の門前にあります。お堂は通りにむかって建てられているので、いつでも、誰でも、お参りすることができます。堂内には第一番の台座に安置された大師像があります。また、木製の大師像が二体、仏像と並んで厨子におさめられたものがありました。

 お堂の奥の壁には小さな扉があり、中は拝見していませんが、おそらく四国一番札所のご本尊様である釈迦如来の像を納めたものだと思われます。大心講の『御詠歌集』によれば、霊場開創者の恵心和尚は四国八十八ヶ所を巡った際に、八十八番大窪寺の僧正よりご本尊様を刻むために老霊木をたまわり、百余体の霊像を作ったとされています。各地の札所に木製の小さな仏像が納められているのを見ました。誰かに確認したわけではありませんが、おそらく、この霊木から刻まれたものではないかと思います(違ったらごめんなさい)。

 お堂の前に足の形をした敷き石があります。恵心和尚は四国から霊場の砂を持ち帰り、各札所にまいたということなので、おそらくこの踏み石の上に立って大師堂を礼拝することで、四国をめぐったのと同じ功徳があるという趣向なのだと思います。

 台座の脇面をスマホでどうにか写してみたのですが、向かって右面には納人のみなさんのお名前があるだけで造立年はありませんでした。左面は堂内が暗いため文字が読めるほどには写らないのですが、何か刻まれているようではあります。


 第四十八番と元大師の開山堂は善紹寺境内にあります。

善紹寺境内の大師堂。右の小さい方が四十八番、大きい方が開山堂。
南葛八十八ヶ所いろは大師第四十八番大師像
四十八番のお堂にかかげられた扁額。文字は消えてしまっている。

 第四十八番のお堂には番号の台座に安置された大師像と、その脇にはなぜか不動明王と思われる仏様が厨子に納められて置かれています。お堂の奥の壁には小さな扉があり、おそらく四国四十八番寺のご本尊様である十一面観音を納めたものだと思われます(中は拝見していないので想像です)。

 お堂の軒下には木製の扁額がかかげられていますが文字は消えてしまっています。おそらくは「第四十八番西林寺の写 みだぶつの せかいをたづね…(御詠歌)」と書かれていたものだと思います。いろは大師の扁額はだいたい消えてしまっているのが残念です。

善紹寺開山堂(元大師が納められている)
開山堂内(ガラス越しに撮影させていただきました)

 四十八番のお堂のとなりには開山堂があります。こちらには恵心和尚が最初に造立したいろは大師が納められています。いろは大師像は厨子におさめられて見る事はできないのですが、台座に「いろは大師」と刻まれているのが見えます。

 またこちらには番号のない石の大師像が二体納められています。これはいずれかの廃止された札所から引き取ったものなのか、それとも最初からここに納められていたのか、お寺の方に聞いてみないとわかりません。
 
 善紹寺については昭和の中ごろに発行された『葛飾区史』に「真言宗豊山派に属し、大心山と号する。大正年間の創立で本尊に弘法大師像を安置する。寺宝として唐白担立像及び室町末期と推定される五具足等がある。当寺は新しく設定のため堂宇の建設が計画予定されている」とだけあります。

 また近年葛飾区によって編纂されたWEB板の『葛飾区史』によれば「南葛八十八箇所は、大正12(1923)年、現在の奥戸、善紹寺の住職により始められた「いろは大師」をもとに大正14(1925)年、八十八ヶ所の霊場が整備された」とあります。

 それとこれは完全にネット情報ですが、恵心和尚の息子さんである宇田川善紹氏が自宅を寺としたもの、と書いている方もみつけました。いずれにせよ、恵心和尚ご自身か、息子さんによっ大正年間に開かれたお寺ということです。

 いろは大師はこのお寺を一番として、同じ奥戸の明源寺の八十八番でひとめぐりします。

いろは大師の札所を地図にまとめたもの(スクリーンショット

 地図はわたしが札所をまわるためにメモとして作ったものです。詳しくはこちらからどうぞ。
 
 
 ところで、恵心和尚は明治43年開創の南葛八十八ヶ所(南回り)を知らなかったのでしょうか? それとも知っていて、あえて同じ名前で霊場を作ったのでしょうか?

 わたしは、知ってたんじゃないかな、と思うんです。わたしがちょっとお寺を回っただけでも、南回りの札所に納められた扁額をいくつかみつけました。令和の現在ですら残っているので、大正時代にならもっと多くのお寺にあったかもしれないです。

 それにお寺の名前。南回りの一番は江戸川区小松川の「善照寺」だそうで…一文字違いで同じ読みですよね?!

 南葛というのは南葛飾郡の略で、今の葛飾区全域、江戸川区の大部分、墨田区の一部、江東区の一部、足立区の柳原が含まれます。にもかかわらず、南回りの順路はほとんど南葛飾郡の南部(今の江戸川区)ばっかりを通っていて、北部(今の葛飾区)をちょっぴりしか通らないんです。そこにちょっと、カチンと来るものがあって、あえて同じ名前で北部を主に通る霊場巡りを作ったんじゃないかと想像しています。もちろんこれは、あくまで想像です(笑)

 わたしは葛飾区在住で、区内のお寺で恵心和尚の南葛八十八ヶ所のお堂を見ており、南葛といったらそれしかないと思ってました。

 ところがある日、江戸川区内をぶらぶら歩いていたら、思わぬところに「南葛八十八ヶ所」と刻まれた扁額を見つけて、え、こんなところにまで札所があるの? と驚き、ネットで南葛の札所の一覧を見ると、そんなお寺は入ってない。そりゃあそうです。わたしが見たのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所のリストだったのです。

 それから地元の図書館へ行き、前に眺めたことがある下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』を見たら、南葛八十八ヶ所が二系統あるのに気づきました。

 ああ、これは、両方回ってみなきゃ。ネットで主に言われてるのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所だけど、そうでない系統の南葛の札所を自認しているお寺も実際にあるわけだから、ごっちゃにしていてはいけないなと思い、歩き始めたのがこのブログの始まりです。

 家から近い葛飾区内からはじめたので、2020年末現在、まだ南回りの札所は数えるほどしかまわれていません。来年もぼちぼち続けていこうと思います。

2022年追記

 コメント欄やメールでいただいた情報を追記します。

この三件は「善紹寺に遷座されている」とのことなので、善紹寺開山堂内にある2体の像がこれらのうちのどれかなのかもしれませんが、いずれも、どのような調査でそうおっしゃってるのかはわかりませんし、わたし(当ブログ筆者)は善紹寺さんに確認をとるなどの作業はしていません。#22番は確認できました。10月の追記を読み進めてください。↓

2022年10月追記

 またお参りに行くチャンスがありましたので確認してきました。結論からいうと番号の台座が 3基みつかったのですが、あったのは第22番吹上第68番森田屋敷、それから番号が読めなかったものが1基あります。

奥戸・善紹寺の観音堂脇に積まれた 3基の台座

 写真に写っているお堂は観音堂だったと思います(大師堂でないことは確かです)。

積み上げられた台座、上から「第二十二番」「第六十八番」「第……」

 台座の番号は、22番、68番、一番下は土に埋もれてしまい、草も生えているので読めませんでした。少し掘り出せば確認できるかもしれませんが、さすがにお寺さんに許可をもらわないとまずいかなと思ってやめました。大師像そのものは、おそらく開山堂内にある台座のない像のどれかだと思います。

 というわけで、第22番吹上、第68番森田屋敷については、善紹寺に遷座されたことが確認できています。

2023年12月13日追記

 上記の土に埋もれた台座について、かつしかあつめというサイトを作ってらっしゃる方から情報をいただきました。現在は土が取り除かれて番号が見える状態になっているそうで、一番下に隠れているのは39番だそうです。これはかつて 原神社内 にあったとされるものと一致します。近いうちに写真を撮り直しに行こうと思います。

2022年11月13日追記

 以前通り掛かりに撮影した写真を見ていたら、まだブログに貼っていないものをみつけたので追記しておきます。

寺門入ってすぐ左手にある石碑

相馬霊場四十八番法写
यु 弘法大師
 大正九歳三月成
   ■■■書

(下段に寄進者か世話人の方々の名前が刻まれている)

 ■は手持ちの写真では不明瞭で読めなかった部分です。
 この石碑は、寺門を入ってすぐ左手にあるものです。くずし字で「相馬霊場四十八番法写」とあるので、いろは大師とは関係ないのかな、とも思っていたのですが、『御詠歌集』にある開創縁起によれば、恵心和尚が怪我の快癒に感激して

報謝の涙止め難く遂に北相馬新四国霊場を巡拝し一大法悦を感じ自宅の構内に一小堂を建立し、いろは大師と称し、大正八年十一月二十一日入仏供養を修業せり、今の元大師是れなり

とあるので、開山堂におさめられている元大師にまつわる石碑のようですね。相馬霊場(あるいは北相馬霊場)は、取手市我孫子市柏市にまたがる八十八ヶ所霊場のことだと思われます。なぜ四十八番の写しなのかはわかりません。相馬の四十八番は小文間村安養寺ですが、寺そのものは廃寺で、大師堂のみ残っているそうです。

弘法大師 空海 密教