東光寺
西新小岩の東光寺は、南葛「いろは大師」の二十八番、同「南回り」の六十九番です。「四箇領」の十九番でもあります。
【札所番号】
いろは大師:第二十八番(香美郡佐古村大字母代寺・大日寺の写)
南回り:第六十九番
四箇領:第十九番
【札所名】東光寺(真言宗系単立)
【所在地】
旧地名 | 葛飾区上平井町 |
現在の地名 | 葛飾区西新小岩5-21-20 |
【御詠歌(いろは大師28)】本尊大日如来
つゆしもと つみをてらせる だいにちじ などかあゆみを はこばざらまし
【いろは大師、次の札所】
二十九番上品寺へ二丁半
【南回り、次の札所】
七十番、平井・安養寺
東光寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の二十八番で、同名の霊場めぐりである南回りの六十九番でもあります。南葛八十八ヶ所という二系統の霊場巡りがあります。名前が同じだと不便なので「いろは大師」「南まわり」と呼び分けています。詳しくは目次のページなどをご覧ください。またこのお寺は四箇領の十九番でもあります。
堂内の大師像は第二十八番の台座の上に安置されており、いろは大師のものだとわかります。お堂は次の札所である上品寺のものと似た作りで、奥の壁に小さな扉があります。おそらく四国二十八番大日寺のご本尊様を納める厨子なんだと思います。
大心講の『御詠歌集』では、
第23番 正福寺
第28番 東光寺
第29番 上品寺
第22番 吹上
という順番でまわることになっています。しかし、正福寺からだと上品寺のほうが近くにあるのに、なぜか東光寺を先にお参りしてから上品寺に戻り、さらに吹上へ、ジグザグに移動するのがちょっと謎です。なんの都合なんでしょうね。
南回りと四箇領については痕跡はみつかりませんでした、南回りは運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額がみつかることがあります(ごくたまに固有の大師堂もあります)。四箇領は白い石柱に「八十八」や「第○番へ」と刻んだ標石などが残っていることがあります。
上品寺
東新小岩の上品寺は南葛「いろは大師」の二十九番で、同「南回り」の六十九番です。「四箇領」の二十番でもあります。このお寺には大きな閻魔大王像があることでも有名です。
【札所番号】
いろは大師:第二十九番(長岡郡国分寺村・国分寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。寺は国分寺ですが、村は国府村と書くようです。
南回り:第六十八番
四箇領:第二十番
【札所名】上品寺(新義真言宗)
【所在地】
旧地名 | 葛飾区上平井 |
現在の地名 | 葛飾区東新小岩7-8-2 |
【御詠歌(いろは大師29)】本尊千手観音
くにをわけ たからをつみて たつてらの すゑのよまでの りやくのこせり
【いろは大師、次の札所】
二十二番吹上へ六丁半
【南回り、次の札所】
六十九番、西新小岩・東光寺
上品寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の二十九番で、同名の霊場めぐりである南回りの六十八番でもあります。いろは大師(大正14年開創)と南回り(明治43年開創)は起源も順路も違うまったく別の霊場めぐりです。当ブログはこの二系統の南葛八十八ヶ所の札所に注目しています。またこのお寺は四箇領の二十番でもあります。
いろは大師、南回り、四箇領と三系統の霊場巡りの札所になっているわけですが、大師堂内にある像は第二十九番の台座に安置されているのでいろは大師のものだとわかります。
堂内奥の壁に小さな扉があるのは、おそらく四国二十九番国分寺のご本尊様を安置するための厨子になっているのだと思います。
番号の台座の左右の脇には文字が刻まれています。向かって左脇は壁と近すぎて内容までは読めませんでした。右脇(上の写真)には納人の名前が刻まれています。文字はスマホを差し込んで撮影して確認していますが、堂内が暗いこともあり人名は不明瞭でよくわかりません。しかし東京市とあることから、明治中期から戦前までというおおざっぱな造立年代はわかります。
お寺の門前に、小さく白い石柱がありますが、これは四箇領の標石です。四箇領は江戸時代からある八十八ヶ所霊場で、上品寺は二十番札所です。向かって左面に、左向きの指さしマークと二十番への文字が見えます。右面には二十二番へと刻まれているようです。おそらく昔は順路となっている道端に立てられていたものだと思います。四箇領の標石は、都内だともう道端からは撤去されてお寺の門前に残されていたりするのですが、三郷市内で何ヶ所かまだ路辺に残されているのをみつけています。
www.chinjuh.mydns.jp
わたしがやってる(今ほとんど放置ですが)別のブログの記事です。
ところで、上品寺といえば閻魔堂(エンマ堂)です。高さ2メートルの大きな閻魔大王座像があります。ぱっと見では新しいもののように見えますが、昭和中期に修復されたからであって、製造手法から室町時代初期の作だと考えられるそうです。ただし作者名などの銘文がないため文化財には指定されていないとのこと。
かつては江戸十六エンマのひとつとされていましたが、安政二年の大地震でエンマ堂が崩落し、以降は本堂の片隅に安置されていたとのこと。現在のエンマ堂が出来たのは昭和48年だということです。
伝説によれば、こちらのエンマ様は洪水で中川の上流から流れてきたものを村人が拾い上げて上品寺に奉納したと伝えられているそうです。三郷市、葛飾区、足立区あたりには洪水にまつわる伝説が多数あります。どこそこの神社の御身体はうちの村から洪水で流れて行ったものだ、というような話が多いのですが、上品寺のように流れ着いたものの話もいくつかあります。
吹上(奥戸・善紹寺に遷座)
南葛八十八ヶ所「いろは大師」の二十二番は、かつて小岩三丁目(旧上平井町)にあり「吹上」と呼ばれていたようです。現在は小岩三丁目ではなく、奥戸・善紹寺に遷座されています。
【札所番号】
いろは大師:第二十二番(那賀郡新田村大字荒田・平等寺の写)
【札所名】吹上
【所在地】
旧地名 | 葛飾区上平井町 |
現在の地名 | 葛飾区小岩三丁目 |
# 下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』では「西新小岩3-34-1」としています。
【御詠歌(いろは大師22)】本尊薬師如来
びやうどうに へだてのなきと きくときは あらたのもしき ほとけとぞみる
【いろは大師、次の札所】
下小松町の番外へ十丁
# ↑この番外はおそらく現在の七十番福島地内
南葛八十八ヶ所いろは大師の第二十二番は、大心講『御詠歌集』によれば旧地名で葛飾区上平井町、現在の地名では西新小岩三丁目となっています。この本は昭和54年版です。
また、下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』ではもうちょっと細かく 西新小岩3-34-1(三丁目34番地1号)としています。平成元年に出版された本です。
上に貼った地図の青いポイントの場所がだいたい西新小岩3-34です。MapFanでみると、西新小岩の3-34には1号がないですね。たぶん道を広げるなどした時に消滅したんじゃないかと思います。
念のためこの場所へ行き、3-34のまわりを歩いてみたのですが、やはり大師堂はありませんでした。現在は失われてしまった札所なのでしょう。
札所名がただ「吹上」とあるので寺ではなく、路辺のお堂だった可能性が高く、昭和の末期までは存在したかもしれません。このあたりに昔から住んでる方で、第二十二番の台座に載せられた大師像をご覧になった事がある方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄で思い出を語っていただければと思います。
追記 2022年7月
コメント欄でいただいた情報によると、吹上は廃所で大師像は 奥戸・善紹寺に遷座されたとのこと(典拠不明)。善紹寺の開山堂内に番号のない大師像が2体おさめられているので、そのうちのどちらかが吹上にあったもの「かもしれません」。お寺に問い合わせるとかはしていません。
下小松町、謎の番外(厄除合体大師)
南葛「いろは大師」の札所ですが、大心講の『御詠歌集』では「番外」とされているのにお堂の中には第七十番と刻まれた大師像があります。
【札所番号】
いろは大師:番外
【札所名】不明
【所在地】
旧地名 | 葛飾区下小松町 |
現在の地名 | 記載なし |
(東京都葛飾区新小岩3-12 福島商店さんの近くにあります)
【御詠歌(いろは大師)】
記載なし
【いろは大師、次の札所】
八十七番東福院へ二十一丁半
# 東福院まで実際には六丁四分くらいしかない。
謎の番外は、南葛八十八ヶ所いろは大師の札所です。この札所は『御詠歌集』の道順里程(わたしは「順路」と呼んでる)に載っていて、旧町名で「葛飾区下小松町」とあります。ひとつ前の二十二番吹上から十丁、次の八十七番東福寺へ二十一丁半とあります。書いてあるのはそれだけなので、寺なのか、路辺なのか、個人宅なのかもわからず、最初はなんだろうと首をひねっていました。
『御詠歌集』には、札所のリストがもうひとつあって、そっちは札所のおおまかな住所+御詠歌のセット(わたしは「歌」と略してる)なんですが、こちらは現在使われている地名で書かれているため、下小松町という住所表記はありません。
そこで、下小松町が現在のどこにあたるのかを古い地図で調べると、新小岩駅の南側で平和橋通りの東、小松川境川親水公園の西あたり。町名でいうと新小岩二丁目、三丁目、四丁目あたりっぽいのですよね(正確な境界線がわからないので大ざっぱにそこらへんということですけど)。
それだと「歌」のほうで「七十番福島地内」が新小岩三丁目なので一致しそうです。
この福島地内は、福島商店というお酒やお米を売るお店の敷地内です。今も商店があるし、七十番の大師像がちゃんとあります。今昔マップで福島商店の場所にマーカーを置いてみると、昔の町名では下小松町にあたりそうです。
しかし、ここにあるのはあくまで七十番なんですよね。番外じゃなくて。
じゃあ下小松町の「番外」とは一体なんなのか。
実は「七十番」は二つあります。その件は「福島地内」と「浄心寺」にも書きましたが、『御詠歌集』では浄心寺のほうを「前札七十番」と呼んでいます。正確な事情はよくわからないのですが、七十番を移転しようとして、結局は両方とも残ってしまった、ということなんじゃないかと思います。どちらを残すかで揺れて、福島家の大師像を「番外」としていた時期があったんじゃないでしょうか。
ただ、謎は残ります。「順路」によれば次の八十七番東福院まで二十一丁半(2.34kmくらい)と書いてあるんですが、東福院はそんな遠くないんですよ。せいぜい六丁四分(700mくらい)しかないです。たんなる書き間違い(または誤植)でしょうか。それとも福島商店が昔は別の場所にあったのかも…?
古い巡拝案内図には「厄除合体大師」とある 2022年8月追記
本文では「福島地内の70番と、下小松町の番外が一致するようだが、次の札所87番までの距離が、福島地内からの距離と合わない」と書きました。これについて、新たな手がかりがみつかりました。
これもコメント欄などで情報を教えてくださる研究家の小川さんから教えてもらったのですが、葛飾区立中央図書館に『南葛八十八ヶ所御大師順路地図』という、いろは大師の古い巡拝案内図があるというんですね。19番前西の札所を今でもお世話なさっているTさんという方の家に伝わっていたものだそうです。
もっと大きな写真を見たい場合は→ここをクリックまたはタップ←してください。別のウィンドウなりタブなりで大きな画像が開くと思います。赤い文字はわたしが後から書き込んだものです。もとは川などに色がついているんですが、図書館では白黒コピーしかできませんでした。それをさらに写真を撮ったので、文字などぼけてて読みにくいかもしれません。オリジナルも不明瞭な部分はありますが、此の写真よりはちゃんと読める感じです。
地図には発行年月日がないのでいつごろのものなのかはわかりませんが、おそらく戦前のものだと思います。
- いろは大師が88ヶ所そろったのは大正14年(1925年)
- 新中川=中川放水路がない→1963年3月より前
- 陸前浜街道(国道6号の前身)がくねくね曲がりながら小菅あたりで荒川放水路に当たる→戦前(戦後の地図だと6号がまっすぐになって四つ木橋につながってる)
……ということで、たぶん昭和初期の地図じゃないかと思うんですよね。
前置きが長くなりましたが、この地図を見ると「謎の番外」にあたる場所には「厄除合体大師」と書いてあります。
この合体大師ですが、わたしは不勉強で知らなかったんですけど、鯖大師、秘鍵大師、荒行虫除大師と同じように、弘法大師の伝説にそういうのがあるらしいです。
本尊・合体大師像
秘仏で、お姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。古文書によると、空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。
出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。学者らの話によると「恐らく僧形八幡像だろう。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想=神仏同体説=に基づくもので国宝に東寺、薬師寺、東大寺に同じような物があり、調査すれば国宝級の物だろう」という。
上記は京都の乙訓寺(おとくにでら)の伝説で、首から上は八幡大菩薩、首から下は弘法大師という像なんだそうです。おそらく、下小松町の番外は、乙訓寺の合体大師の写しだったんだと思われます。といっても乙訓寺の像は最近まで秘仏だったそうなので、想像で作ったに違いありませんが。
では、合体大師=現在の70番なのでしょうか? 残念ながらそれはわかりません。とにかく下小松町の番外は、戦前まで「厄除合体大師」だったようです。
東福院(東福寺)
江戸川区松島の東福寺は、南葛「いろは大師」の第八十七番であり、南葛「南回り」の第七十五番です。大師堂はいろは大師のもので、南回り関連のものは残っていません。
【札所番号】
いろは大師:第八十七番(大川郡長尾村・長尾寺の写)
南回り:第七十五番
【札所名】東福院(真言宗豊山派)
# 大心講『御詠歌集』では東福寺になっている。
【所在地】
旧地名 | 江戸川区堂ヶ島町 |
現在の地名 | 東京都江戸川区松島3-38-18 |
【御詠歌(いろは大師87)】本尊聖観音菩薩
あしびきの やまどりのをの ながをでら あきのよすがら みなをとなへて
【いろは大師、次の札所】
六十四番聖天堂西光寺へ二十六丁
【南回り、次の札所】
第七十六番、新小岩・照明寺
江戸川区松島の東福寺は南葛八十八ヶ所いろは大師の八十七番であり、南回りの七十五番でもあります。当ブログは同名でまったく違う二系統の南葛八十八ヶ所霊場に注目し、札所となっているお寺をめぐっています。「いろは大師」「南まわり」という名称については目次のページなどを読んでください。
東福院の大師像は二体の地蔵尊ととなりあわせで安置されています。八十七番の台座に載っているのでいろは大師のものだとわかります。台座の向かって右脇に「大正十四年十一月」の日付があります。いろは大師は大正12年から14年にかけて段階的に札所を増やしていったそうで、台座に刻まれた造立年もまちまちです。
南回りについては痕跡はみつかりませんでした。南回りは大師像の造立を積極的におこなわなかったようで、運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ木製の扁額が残っている場合があります。
立派な山門があり、開いているのですが、柵があるのですよね。左側の通用門は施錠されていなかったので、ちょいとごめんくださいと呟きながら参拝させていただきました。
聖天堂西光寺(現・小松川神社)大師像は現存せず?
聖天堂西光寺は南葛「いろは大師」の第六十四番であり、南葛「南回り」の第七十三番ですが、西光寺そのものは廃寺となっており、聖天堂は小松川神社内にあります。残念ながら大師堂は残っていません。
【札所番号】
いろは大師:第六十四番(の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。
南回り:第七十三番
【札所名】聖天堂西光寺(小松川神社内)
【所在地】
旧地名 | 江戸川区小松川新町 |
現在の地名 | 江戸川区小松川3-2-1小松川神社内 |
【御詠歌(いろは大師64)】本尊阿弥陀如来
まへはかみ うしろはほとけ ごくらくの よろづのつみを くだくいしづち
【いろは大師、次の札所】
七十六番正養寺へ七丁七分
【南回り、次の札所】
第七十四番、江戸川区松島・光福寺
当ブログは南葛八十八ヶ所という名称で二系統存在する霊場巡りに注目しています。
「いろは大師」「南回り」は呼び分けられないと不便があるので当ブログでつけた便宜上の呼び名です。このふたつは一部の札所が共通してはいますが、経路がまったく違う別の霊場めぐりです。詳しくは「目次のページ」や「いろは大師の由来」をご覧ください。
さて、いろは大師の六十四番、南回りの七十三番は江戸川区小松川の「西光寺(聖天堂)」にあったとされています。お寺は廃寺になったというような話をどこかで読みましたがうろおぼえです。もともと住職がいない念仏堂のような感じだったのかもしれません。現在は小松川神社内に聖天堂が併設されています。しかし、残念ながら大師堂や大師像はここにはないようです。
以下は境内にあった神社の由来を説明する文書の写真と要点の抜き書きです。
- このあたりは西小松川村に属していた。
- 大正元年に荒川(放水路)の開削が始まり小松川町となる。
- もともとの氏神である堂ヶ島香取神社の分霊を西光寺境内の稲荷社に祀る。
- 昭和11年に神殿を建立。東篠崎の水神社を合祀。翌12年に遷宮際。
- 平成九年に現在地に移転。
- 神社の獅子頭にまつわる昔話:祭礼のために集まった若い衆が酒代を作るために当社の獅子頭を質入れしてしまうが、獅子頭が毎夜うなり声を上げるので、質屋が気味悪がって「借金は帳消しにするので」と獅子頭を神社に返した。
- 現在の小松川一、二、三、四丁目は、西小松川村新町だった。
- 昭和12年に西小松川村の下之庭天祖神社と堂ヶ島香取神社から分霊を祀ったのが小松川神社の始まり。
- 近年(碑文は平成12年作成)このあたりが再開発されることになる。
- 旧境内地にほぼ重なる位置に2400.14㎡の境内地を得て移転が決まる。
- 平成9年、神社南側の土地に仮社が作られる。
- 平成12年新本殿が完成する。
上記の資料を総合すると「聖天堂西光寺」は、境内地内での多少の移動はあったにせよ、現在の小松川神社の場所に昔からあったようです。寺の境内に稲荷社があり、荒川放水路が開削されてからは川の東側にあった氏神様の分霊を稲荷社にお祀りしていました。これが現在の小松川神社の起源だそうです。
昭和54年版の大心講『御詠歌集』では「聖天堂西光寺」を六十四番としているので、その当時には大師堂があったのか、あるいはすでに失われていたのか、このへんは当時を覚えている人に聞いてみないとわかりそうもありません。
昔のことを覚えていらっしゃる方がもしご覧になりましたら、ぜひコメント欄で思い出を語ってください。
正養寺
平井・正養寺は南葛「いろは大師」の第七十六番・第五十三番であり、南葛「南回り」の第七十二番でもあります。大師像はいろは大師のもので、南回り関連のものは残っていません。
【札所番号】
いろは大師:第七十六番(仲多度郡滝川村大字金倉・金倉寺の写)
いろは大師:第五十三番(温泉郡和気村・円明寺の写)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。金倉寺は滝ではなく"竜"川村かと思います。
南回り:第七十二番
【札所名】正養寺(真言宗豊山派)
【所在地】
旧地名 | 江戸川区逆井町 |
現在の地名 | 江戸川区平井2-5-18 |
【御詠歌(いろは大師76)】本尊薬師如来
まことにも しんぶつそうを ひらくれば しんごんかじの ふしぎなりけり
【御詠歌(いろは大師53)】本尊阿弥陀如来
らいかうの みだのひかりの ゑんみやうじ てりそふかげは よなよなのつき
【いろは大師、次の札所】
(七十六番から)同町内五十三番へ一丁半
(五十三番から)七十四番安養寺へ十八丁半
【南回り、次の札所】
第七十三番、小松川神社内・西光寺
お寺は似た名前や同名が多いです。こちらは正養寺で、いろは大師で言うと次の札所が安養寺です。ちょっと頭が混乱しますね。
さて、正養寺は南葛八十八ヶ所「いろは大師」の七十六番、五十三番です。また、同名の霊場めぐりである「南回り」の七十二番でもあります。当ブログは二系統の南葛八十八ヶ所に注目しています。名前が同じため、大正14年開創のものを「南葛いろは大師」、明治43年開創のものを「南葛南回り」と呼び分けています。
大師堂内の大師像はそれぞれ七十六、五十三の番号がついた台座に安置されていますのでいろは大師のものだとわかります。二つの大師像の間に小さな厨子があります。中にあるのは阿弥陀様か薬師如来のどちらかじゃないかと想像しますが、前に小さな大師像がもうひとつ安置されているので持物を確認できませんでした。
南回りは大師像や大師堂を積極的に造立しなかったようなのでここにもありません。運がいいと札所番号と御詠歌を刻んだ扁額が残っている場合もありますがみつかりませんでした。正養寺は今より東にあったようですが、荒川放水路の開削工事で大正2年にこの地に移転したということです。また第二次大戦中に戦災で寺が焼けてしまったということなので、移転時か、戦争当時に木製の扁額などは失われたのだと思います
いろは大師の開創は大正14年です。その時点では寺はすでに今の場所にあったと思われます。台座にくらべて像が新しいので、ひょっとすると戦後に作り直しているかもしれませんが確かなことはわかりません。いろは大師は唱和末期まで送り大師などの行事が行われており、比較的新しい霊場めぐりです。現在はほとんど活動していないようです。
ところで、いろは大師を開創した大心講の『御詠歌集』(昭和54年版)によると、七十六番から五十三番へ、一丁半(160mくらい)の距離があります。現在はふたつ並んで同じ堂内にありますが、昔はどちらかが近くの路辺や墓地などにあったかもしれません。
第五十三番の台座の向かって左面が一部のみ読めました。そっとスマホを差し込んだりして撮影しています。
主任 長岡二…(かすれ)
世話人
野口…(かすれ)
野口…(かすれ)
安倍…(かすれ)
恩田…(かすれ)
(以下物のかげになって読めず)
番号の台座は、左右と背面に何か刻まれている事が多いです。書かれているのは「納人(講名やメンバーの名前)」「世話人(同)」「発起人(同)」「造立年(だいたい大正十四年○月○日)」ですが、必ずあるわけでもなさそうです。
納人は、おそらくお金を出して大師像を奉納した人で、講だったり個人だったりします。講名や個人の住所などを見ると、かならずしも近くの人がお金を出してるわけでもなさそうです。世話人はおそらく近くの人なんだと思います。発起人は裏に書いてあることが多いみたいなんですが、裏側は見られないことが多いです。