二系統の南葛八十八ヶ所霊場

旧南葛飾郡に開かれた二系統の南葛八十八ヶ所を実際に回っています。

見分け方早分かり
いろは大師(北回り)|大心講|大正14年|一番は奥戸・善紹寺
南回り|弘山講|明治43年ごろ|一番は東小松川・善照寺
「名称について」も読む

札所一覧(目次)へ

東小松川・宝積院

 東小松川・宝積院は南葛「南回り」第八十八番札所です。境内の大師堂に南回りの扁額があります。また松江村廿一ヶ所の第十番でもあります。



【札所番号】
南回り:第八十八番

松江村廿一ヶ所:第十番

【札所名】宝積院(真言宗豊山派

【所在地】

旧番地等 江戸川区小松川2-4471
現在の地名 江戸川区小松川2-1-16

# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。江戸川区内は川や道路の工事で大々的に丁目や番地のふりかたが変わるなどしており、昔の資料にあたる時に必要になるかもしれないので書いてみることにしました。

【御詠歌(南回り88)】本尊薬師如来
なむやくし しよびやうなかれと ねがひつゝ まいれるひとは おほくぼのてら

【御詠歌(松江村10)】
うまれつゝ いでいるいきの そのまゝに あうんのにじの たへまなければ



小松川・宝積院の大師堂と南無興教大師の石碑

 東小松川の宝積院(ほうしゃくいん)は、南葛八十八ヶ所南回りの第八十八番です。南回りは東小松川(旧・松江村)の善照寺から始まって、同村内の宝積院に戻ってくる霊場巡りです。南回りの札所としては、わたしはここを最初にみつけました。墓地内に大師堂があり、軒下に扁額がふたつ掲げられています。ひとつは南葛南回りのもので、もうひとつは松江村二十一ヶ所という、わたしはまったく聞いた事のない霊場巡りのものでした。さらにお堂の脇に「南無興教大師」と刻まれた石柱があり、脇面に「四国三十五番」の文字も見えます。

 まずは南葛南回りについて書きます。

 同じ事を何度もいろんなところに書いていますが、南葛八十八ヶ所と呼ばれている霊場巡りは二系統あります。作られた年代も違えば、作った人も、順路も、まったく違う別の霊場巡りです。二つあって呼び分けられないと不便なので、当ブログでは「いろは大師」「南回り」と呼び分けています。詳しくは「目次のページ」を読んでください。

 宝積院の札所は、目的もなくこのあたりを歩いてみつけたので、その時は「あれ、南葛(いろは大師だと思っている)の札所ってこんなところにもあるの?」と適当に納得して、写真も文字が読めればそれでいいやくらいの気持ちで写しました。ピンボケしているのはそのせいです。帰宅後に調べたら、いろは大師の八十八番は葛飾区奥戸の妙厳寺だし、ならば宝積寺にある八十八番の扁額は一体なんなのか?! と思ったのがこのブログをはじめるきっかけでした。

 図書館で郷土資料をあたったところ下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』に、八十八番を東小松川宝積院とする霊場巡りについて「明治四十三年十二月に東京弘山講により開創された」と書いてありました。この本では名称を「南葛新四国八十八所」としていますが、札所に残っている扁額を見る限り「新四国南葛八十八ヶ所」と刻まれており、正式にどうという決まりもないんだと思います。

 お堂の中を格子の隙間から拝見すると、小さなガラスケースに収められた大師像と本尊像が安置されています。この大師像が南回りのために安置されたのか、それとも松江村二十一ヶ所のものなのかは、ちょっとわかりません。 どうやらこの小さなお大師様とご本尊様は南葛南回り固有のもののようです。南回りの大師堂はほとんど残っていないのですが、東瑞江の泉福寺にも同形式の大師像が残っています。

小松川・宝積院、大師堂内の大師像と本尊像
新四国南葛八十八ヶ所(南回り)・第八十八番の扁額

 これが南回り八十八番の扁額です。

新四国南葛八十八ヶ所
第八十八番御本尊薬師如来
なむやくし
しよびやうなかれと
ねがひつつ
まいれるひとは
おほくぼのてら

東京弘山講
明治四十五年
五月 納

施主
 中沢菊次郎
 保土田銀次郎(または鉄次郎?)
 同 安太郎
 同 銀蔵

 このブログを書いている時点では、すでに何ヶ所かの札所で同様の扁額を見ています。必ず東京弘山講という南回りを開創した講名と、明治四十五年の文字が入っていました。例>四十番・北小岩正真寺三十九番・北小岩真光寺


 次に、松江村二十一ヶ所(廿一ヶ所)についても見ていきます。こちらも大師堂の軒下に扁額がかかっていました。 

松江村廿一ヶ所・第十番の扁額

松江村廿一箇所
第十番 宝積院
うまれつゝ
いでいるいきの
そのまゝに
あうんのにじの
たへま
なければ

 刻まれているのはこれだけで、講の名前も年代もありません。これはまったく知らない霊場巡りです。『江戸・東京札所事典』にも、二十一ヶ所めぐりの例がいくつか掲載されていますが松江村はありませんでした。今後このあたりのお寺をまわってみる予定なので、もっとみつかるかもしれません。


 最後にお堂脇の石柱についてですが、正面には「南無興教大師」とあり、向かって左面に

四国第卅五番(三十五番)
土州清瀧寺写
宝積院

と刻まれています。ちなみに興教大師も真言宗のお坊さんです。弘法大師の没後、荒廃していた真言宗を建て直した人ですね。向かって右面にも何か漢字で書かれているのですが、苔むしたりしてほとんど読めませんでした。これももしかすると何かの霊場巡りの一部なのかもしれないのですが、現在何に属しているかまったく不明です。

南無興教大師の石柱、向かって左面

(左面)
四国第卅五番
土州清瀧寺写
宝積院


 南葛八十八ヶ所が二系統あることに気づいただけでも自分の中では大発見だったのですが、さらに二つ、まったく未知の霊場巡りをみつけてしまいました。昔の人はどれだけ霊場巡りが好きだったんでしょうね!



【追記】2021.08.20.
 ピンボケだった扁額の写真を撮り直して差し替えました(現在はピンボケしていません)。

 興教大師と書くべきところを伝教大師と書いてしまっていたので修正しました(頭では興教大師と読んでいるのに何度やっても手が勝手に…!)

 その「南無興教大師」の石碑は、向かって右面と裏にも文字が刻まれていますが、裏面は真っ昼間だと光の関係でどうやっても写真に移りませんでした。右面はどうにか撮影して画像処理をしたところ、いくらか読める文字があったので下に追記します。

南無興教大師の石碑右面

■は読めない
?は直前の文字に自信がない

(右面)
組?寛政四歳■壬子■人十二 大師■
唱滅■於根?嶺?六百五十年于此魚?津■
之功■道之?■■然千?今因■現前■■
■力建此■■添■■以奉酬?海岳■
  秘宝既無尽 密蔵■■■
  遍明破儀?闇 ■楽?転真輪

#(裏面)と書いてましたが、写真を良く見直したら向かって右面だったので直しました。

 ほとんど読めていないのですが、1行目の「寛政四歳」と2行目の「六百五十年」は重要な手がかりになりました。これまでに宝積寺をふくめて四つの寺で「寛政四」と刻まれた石碑を発見しています。

 詳しくは「何に属するかわからない札所番号」をご覧ください。


 

何に属するかわからない札所番号(おそらく東葛西領八十八ヶ所)

 おはようございます。寝て起きたら購読者が30人をこえていてちょっと驚いています。何かで紹介してもらえたのでしょうが…一体何が起こったんでしょう(汗)

 わたしが作るコンテンツは、だいたい「あれ何だっけ?」「こういうのをみつけたけど、一体なんだろう?」みたいな思いつきを検索した時にヒットすると嬉しい感じになっていて、更新を端から読んでもあまり面白くないかもしれないですけど、とりあえずよろしくおねがいします!


 さて、今回は二系統の南葛をまわっているうちに見つけた未知の霊場めぐりについてメモ的にまとめておきます。特にことわりがない場合は弘法大師霊場です。


▲第56番 上一色・正蔵院:この寺が西新井組(四箇領の別名)の二十三番であることと、「別組 第五十六番」である事が刻まれた石碑がある。
 

▲第61番 細田・東覚寺(東学寺):御詠歌の扁額。
 

▲第74番 柴又・医王寺:江戸時代(寛政四年)の石碑に四国第七四番とある。西国第九番(これは観音霊場)の文字も見える。
 

▲第76番 葛飾区鎌倉・浄光院:御詠歌の扁額。


▲第78番 北小岩・十念寺:御詠歌の扁額。

 詳しくはリンク先を読んでみてください。

 これらは南葛のどちらの系統でもなく、四箇領、荒川辺、荒綾にも属しません。

 61番、76番、78番は、あきらかに同じ形式の扁額なので同じ組(同じ霊場巡り)です。

 56番と74番は仲間かどうかわかりません。

 しかし、こうして地図に配置してみると、比較的近い番号で固まっているので、すべてが同じ組の札所だったとしても不思議ないなあと思っています。

 もしすべてが同じ組であるとしたら、医王寺の石碑は古いので、江戸時代からある霊場めぐりかもしれないですね。

 来年は南回り関連で江戸川区に足をのばす予定です。新たな手がかりが発見できるかもしれません?!

上記を書いたあとに見つけたものを下に追加。


▲第35番 東小松川・宝積院:南無興教大師の石柱
 向かって右面に漢文が書いてあり、苔むして読めないと最初は諦めていたのですが、写真にとって画像処理などして読んだ結果「寛政四歳」「六百五十年」の文字が読めたため、他の石碑と同じシリーズだと確認できました。


▲第11番 江戸川・蓮華寺:柴又医王寺にあるのと同じく寛政四年と刻まれている。また西国十六番(これは観音霊場)の文字も見える。少なくとも医王寺のとは同じシリーズだと思われる。/その後、松江東善寺で同様の石柱を見つけました。

さらに追加


▲第31番 松江・東善寺:南無興教大師の石柱
 脇と裏面に「四国第三十一番/土州五台山写/東善寺」「奉為六百五十遠忌報恩謝徳也」「寛政四壬子」の文字があります。これによって、柴又医王寺、江戸川蓮華寺、東小松川宝積寺、松江東善寺の石柱がすべて同じ目的で作られたものだとわかりました。
 医王寺と蓮華寺が四国と西国の番号を刻んでいて、宝積寺と東善寺が四国だけなのは、四国88ヶ所に対して、西国は33ヶ所しかないからだと思われます。四国は南から北へ、西国は北から南へ番号がふられていたに違い有りません。

2021年8月25日追記

 下記は葛飾水元・遍照院の大師堂にある扁額です。こちらには以前から古い扁額があるのを知っていましたが、資材の影になっているのと、スマホでは上手くうつらなかったのとで内容までは確認できませんでした。「ひとり案内」に遍照院が出てくるので、今回は望遠のきくデジカメを持参して写したところ、65番伊豫国三角寺の御詠歌だということがわかりました。遍照院は二系統どちらの南葛八十八ヶ所にも入っていないのでここに特記します。

壁際にある四角い板に御詠歌が刻まれています
望遠で写して読みやすいように歪みをとったもの
読み取れる部分を図解

四国霊(場第六十五番)
伊豫国三(角寺写)
   (遍照院)
おそろしや
 三ツのか(どにも)
  いるな(らば)
こゝろをまろく
 み■を
  ■ん■■

()内は薄れて読みにくいか、物陰にあるものの書いてある事は類推できる部分。
■は消えてしまい何が書いてあるのかわからない部分です。

 伊豫国三角寺の御詠歌は「おそろしや三つの角にも入るならば心をまろく慈悲をねんぜよ」なのですが、この扁額では慈悲の部分が違う言葉になっているようです(たとえば「みち」とか)。

 流れるようなくずし字の書体や、特徴的な扁額の形。奉納した日付が講の名前がないことなど、細田東覚寺、葛飾区鎌倉浄光寺、北小岩十念寺にある扁額と同じシリーズであることがわかります。

2021.10.09追加


▲第28番 一之江・妙音寺の石柱:これとおぼ同じ形式のものが一之江・薬王寺にもある。造立年や興教大師遠忌などの文字は刻まれていない。

四国第廿八番
大日寺
妙音寺

2021.10.11追加



▲第27番 一之江・薬王寺の扁額と石柱:石柱はすぐ近くにある一之江・妙音寺門前にあるのと同じ形式です。

2021.11.05追加


▲第07番 東葛西・東善寺の石柱

(正面)
四国第七番
阿波十楽寺
東善寺
 
(向かって右面)
西国二十一番うつし
 
(向かって左面)
ちゝぶ十八番うつし

2021.11.09日追加



第01番:東葛西・昇覚寺の石柱とその図解。脇面が秩父音霊場写の案内になっている。この寺には天保五年(1834年)の石柱にも「四国第一番」の文字がある。

(Aの面)

四国
第一番
霊山寺写昇覚(以下埋まっている)

(Bの面)

秩父十一面尊像安置

(Cの面)
不許葷酒入山門


第03番:東葛西・昇覚寺内にある石柱。神明寺という別の寺にあったものを移設したようだ。神明寺については『江戸川区史』にも掲載されていないのでどこにあったかは不明。無住の寺か念仏堂のようなものだったかもしれないし、昭和51年より前に廃寺になったのかもしれない。

यु 四国
第三番
金泉寺写 神明寺


第02番:中葛西・正応寺の石柱。文化八辛未歳(1811年)とある。同様の石柱が一之江の妙音寺、薬王寺東葛西の東善寺、昇覚寺にもあるが造立年があるのは正応寺のみ。

(正面)
हाँ 南無遍照金剛

(向かって右面)
四国第二番
極楽寺
潮林山正応寺

(向かって左面)
文化八辛未歳二月吉辰日


第08番:北葛西・竜光寺の石碑。反対面が葛西三十三所の案内。

(向かって右)
स 葛西三十三所 第十八番明光山竜光寺

(正面)
興教大師六百五拾遠諱

(向かって左)
यु 四国第八番 熊谷寺

(裏面)
寛政四壬子歳 十二月吉辰
当山 尊鏡(?)

2021年12月14日追記


▲柴又・真勝院の御詠歌の扁額(大師堂の軒下に掲げられている)

四国霊場第七十五番
讃岐国善通寺
    真勝院

われすまは
 よもきへはてし
  せんすうし
ふかきちかひの
 のりのとも
     しひ


▲真勝院大師堂と堂内の大師像

 ずいぶん前に写したものなんですが、ふと写真を見直したら扁額があったので追記します。このお寺は「いろは大師」でも「南回り」でもなくて、四箇領八十八ヶ所の28番であることはわかっています。しかし扁額の番号は「75番」です。少なくとも扁額は四箇領のものではありません。十念寺、浄光院、東覚寺の扁額と形式が共通しているので同じシリーズでしょう。医王寺と番号が前後するのが少々謎ではありますが。堂内の大師像は手持ちの写真に台座が写ってなかったんですが、たぶん番号がついていなかったんだと思います。

2022.10.15.追記

 奥戸妙厳寺の門前に四箇領18番の石碑があるのですが、それに「第五十八番 伊予国愛媛県佐礼山仙遊寺写」と並記されているのをみつけました。石碑は造立年がありませんでしたが、61番の東覚寺、56番の正蔵寺との位置関係を見ても東葛西領の番号だと思われます。

18番(四箇領)と並記で58番の案内が刻まれている。別の面に十八番へ、十七番へという案内があるため、石碑自体は四箇領の道案内として路辺に立てられたもの。

 これについてはわたしの別ブログのこの記事もどうぞ。
www.chinjuh.mydns.jp
↑長い記事ですが「並記された58番は東葛西領八十八ヶ所」というところが東葛西領の話になってます。




 上記のうちいくつかは「東葛西領八十八ヶ所」の札所ではないかという情報をいただきまして、それなら文久二年の巡拝記が『江戸川区史』にあったと思い、取り急ぎテキスト化してみました。
 この文書には札所になっている寺の名前が全て出てくるわけではなくて、村名で書いてある部分が多く、具体的にどの寺か再現するのは難しいんじゃないかと思っていたのですが、世の中にはなぜか東葛西領の札所一覧があるらしくて、若干混乱気味です。
 あとで余裕があったら、この文書に出てくる村名と、その村にあった寺のリストを作ってみようとは思います(『葛西志』『江戸名所図会』などを解読すればいけそう?)。

 文久二年戌年四月吉日
  東葛西領新八十八ヶ所詣ひとり案内
      村領
 四国霊場八十八ヶ所之写しを巡拝せしことを願いて首夏の五日なるに出立の道つからは、笹ヶ崎むら・篠崎・上鎌田・下鎌田・前野・今井をすぎて、二之江村蓮華寺へ一宿を願ひて中喰を遣ひ、夫より新川口まで参りしが折しも雨ふり出し暫く見合て居たりしが、やむ様子もなければ新川の渡を越ても歩行はなり雖くと戻りければ、雨はしきりにつよくなり五六町の間にことごとくぬれて蓮華寺へ戻りけり。
 朝は能き天気にて、丸でみなぬれて戻りし夏雨にけさたつころも降とをもわん、などと戯て発句に
  蓮池に蛙産まるる御寺かな
 ぬれ着物を火鉢にかけて千人も有、かり着する人もあり、ややすぎて貴僧は御本尊正観世音菩薩を開帳なせしに、同行は有難拝礼をなし暫く鉦をならして念仏を唱えける。夜にいって涅槃経を聴問して後座に酒を数盃頂戴して皆ここちよく伏したりけり。
 発句に
  短夜に夢を見る間も無かりけり
 はや東雲烏つげわたり、かすかにききし鐘の音はさて真間寺のかねとかや、皆老母は起きて米をとぎ、菜をにる老もあり、掃除する老もあり、その中に予はのそんとして莨に更て居たりけり。たちまちに膳立ては出来朝飯を戴き、ゆるゆると仕度して立にけり。是より長島・雷村・中割・新田・宇喜田村の竜光寺にて御茶を希い、中喰を遣ひて新川の三角をこいで船堀えあがり、中川の御関所手前迄行、夫より東小松川にかかり東一之江・西一之江・新堀・鹿骨を打留にして其日は戻りけり。
 明ればけふは七日なり。早朝より仕度して行く道すがらは興之宮村・松本むら・本一色・下小松・上小松村・道ヶ島・五分一にいたりければ時はよしと中喰を遣ひ、夫ゟ逆井を拝し下平井・中平井・上平井むら・奥戸村にて材木屋山内氏の君は同行に一飯を進ぜたき思召より、一同は其奇特の志を考じ遠慮なく頂戴をして遠足の草臥を散じ、暫く休足して是より曲金村・細田上一色ゟ当村円蔵院東福寺迄参詣して其日は帰りけり。そちこちとして四五日おくりければ、はや十二日となりければ天気はよし、殊のほかに一日拝礼をせば結願となりし事を楽みに出立の主催となりにけり。先づ道筋は伊与田法輪寺を始めとして小岩田をすぎ、柴又にかかり堤の外に柳多くありて、発句に
  花ちりし柳は夏の風情かな
 金町の村境に観音堂あり。寺の名をとはばやと近寄よくよくみれば人にはあらで案山子なり。傍に地蔵尊の石ありて
  彳て居ても案山子は一薬師
  鳥を勢至の阿弥陀笠かな
 などと戯て夫より細道を左りへゆけば金蓮院、半田稲荷え参詣して田中の道を行けば、下小合村へかかり四五町ゆけば野中に一軒の出茶屋あり。前には細流ありて四方に道あり、田つづきにしていわん方なき風景なり。ここにて中喰を遣ひ暫く足を休め四方山の噺して居たりしが、咄し中にある人この原は十五六丁にして小向の渡場より新宿までの近道なり。昔ここへわる者出て人のものをはぎ取しことも度々有しが、今は一軒の茶屋出来て其沙汰もやめにけり。夫ゟ猿ヶ又村遍照院に詣て、
  猿ヶ又四国をまわる折からに南無遍照の寺の御祈禱
 などと戯れて三、四丁をゆけば、中川の堤にて飯塚むら夕顔観音堂へ参詣して、少しゆけば浅間の社あり、山高くして大木は茂り中川の流をまのあたりに見て、
 発句に
  水あぶる鴻の羽音や夏の川
 土手に桜多くありて
  葉桜に花の姿の無りけり
 などとはべり。新宿を経て佐倉道筋違橋より鎌倉新田・上小岩・中小岩を拝し当村善養寺を打留として大願成就せしことを皆々心をいさめ別れて帰りけり。
 予が落書は鉄釘をまげて釘ざるの底なしとかや、御笑草の種おろし、笑ふ雀の千声に笑われて居る案山子かな、若しや八十八ヶ所へ参詣の人あらばいささかの杖にもならんかとはべりぬ。

 文久の年二戌ノ卯月上旬

 以上、昭和51年版『江戸川区史』に掲載されたものをテキスト化しました。区史に掲載されたものを句読点まで改変せずに書き写しましたが、たまに間違いがあるかもしれません(ときおり中途半端に歴史的仮名遣いが現代語に直っているのは区史のままです)。原典は善養寺(東小岩の)に所蔵されているそうです。

2021年8月23日

 上記の巡拝記(『ひとり案内』と略します)について、筆者が通った、拝したと書いてある地名(一部は寺や神社の名前)を拾って地図にしてみました。


 ○に★のポイントは、著者が通ったとする村等の名前で、四日かけてまわっているので一日ごとに色分けしました。

 埋もれていてわかりにくいでしょうが、卍のマークはわたしがみつけた謎の札所番号がある寺です。

 前述のとおり「ひとり案内」には寺の名前はごく一部しか書かれていないため、★の場所は札所ではなく村です。この資料だけでは札所のリストは作れません。

 とはいえ、わたしが発見した謎の札所番号(石碑5基と御詠歌の扁額3枚)は #その後もっとみつかってます

  • 「ひとり案内」の範囲からはみ出さない
  • 番号に重複がない
  • 南から北へ番号を振ったようにみえる(つまり全部同じシリーズということ)

といった状況から「ひとり案内」の著者が巡拝した霊場巡り(=東葛西領88)の番号と考えて良さそうです(今後別の手がかりが発見されたら再度検討する必要はありますが)。

 ところでこの「東葛西領」は、資料がないので札所のリストは作れないものと、わたしは考えていたのですが、文久二年(1862年)といえば明治維新はもうすぐといった時期です。ということは、明治に入ってからもこの霊場めぐりは活動していた可能性が高く、もしかすると近年まで(少なくとも南葛の南回りが開創される頃まで)は、札所の場所が知られていた可能性があるのですよね。

 実際ネットでそのリストを公開している方が twitterで連絡をくださったので典拠をおたずねしたところ、札所関係の本をお読みになったそうなんですが、タイトルは覚えてらっしゃらないとのことでした。

 このブログはあくまで二系統の「南葛八十八ヶ所」をめぐるのが主旨なので、ここでは「まあたぶん東葛西領だろう」くらいで満足しておけばいいようには思っています。ちなみに、もしそうならば、東葛西領八十八ヶ所の成立は寛政四年(1821年)まで遡れるということになります。

【追記】2022.05.27.
 この件に関して、葛飾区内で霊場巡りの研究をなさってる方とお話したところ、

  • 東葛西領八十八ヶ所は『ひとり案内』以外に資料がないため、これが正しいというリストはありえない。
  • いくつかの札所には石碑と御詠歌の扁額が残っている(わたしがこのページにまとめたもの以外にもあるかもしれない)。
  • それ以外は「江戸時代からある寺院」「すでに廃寺になっている場合もある」「真言宗の寺院だと仮定する」「個人宅だった可能性もある」という条件で、ひとり案内に出てくる地名とつきあわせて「推測する」しかない。

 …ということです。何かの本に東葛西領の札所リストが載っていたとしても、個人的な研究結果である可能性が高く、何種類か存在するかもしれないです。とりあえず昭和55年ごろに、江戸川区の中川晃さんという方が作ったリストが江戸川区教育委員会に納められているということです(それも推測のひとつでしかないわけですが)。

 なお、唯一の手がかりである『ひとり案内』は、東小岩善養寺にかつてはあったそうなんですが、火事で焼けてしまったとかで現存しないということです…! 古文書はデジタルアーカイブしてネット上で公開してほしいものです。博物館、図書館、教育委員会、あるいは大学の図書館等で呼びかけて積極的にやってほしいものです。失われてしまってからでは遅いのです。

上記謎の霊場巡りまとめ

弘法 観音 寺名  
第01番 秩父番号不明 東葛西・昇覚寺 石碑
第02番   中葛西・正応寺 扁額と石碑
第03番   東葛西・神明寺(昇覚寺に移設) 石碑
第07番 西国21番、秩父18番 東葛西・東善寺 石碑
第08番 葛西三十三所18番 北葛西・竜光寺 石碑・寛政四年
第11番 西国11番 江戸川・蓮華寺 石碑
第27番   一之江・薬王寺 扁額と石碑
第28番   一之江・妙音寺 石碑
第31番   松江・東善寺 石碑
第35番   小松川・宝積院 石碑
第56番   上一色正蔵 石碑
第58番 四箇領18名番 奥戸妙厳寺 石碑
第61番   細田・東覚寺(東学寺) 扁額
第65番   水元・遍照院 扁額
第74番 西国9番 柴又・医王寺 石碑
第75番   柴又・真勝院 扁額
第76番   葛飾区鎌倉・浄光院 扁額
第78番   北小岩・十念寺 扁額

 西国○番は観音霊場で33ヶ所、秩父も観音霊場で33ないし34ヶ所あったはずです。

 葛西三十三所は『東都歳時記』に元禄年間に開創されたものの一覧があるが、18番は木母寺で、北葛西の竜光寺はこの一覧に含まれていない。

 弘法大師霊場は南から順に番号をふったんだろうと思っていましたが、このなかでは一番北にある遍照院は65番でした。

 ということは、遍照院あたりで折り返して、また南下して戻る感じのルートだったんでしょうね。「ひとり案内」の筆者がまさにそういう回り方をしています。


東小松川・善照寺

小松川・善照寺は南葛「南回り」の第一番札所です。


【札所番号】
南回り:第一番

【札所名】善照寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧番地等 江戸川区小松川2-4502
現在の地名 江戸川区小松川3-3-19

# 旧番地等は昭和51年版の『江戸川区史』に載っている所在地です。江戸川区内は川や道路の工事で大々的に丁目や番地のふりかたが変わるなどしており、昔の資料にあたる時に必要になるかもしれないので書いてみることにしました。

【南回り次の札所】
江戸川区内 観音寺(廃寺?)
 

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善照寺門前
f:id:chinjuh3:20201020140735j:plain
善照寺の大師堂

 ネット情報は検索してヒットしたところから読むのが普通ですし、そこだけ読んで離脱するのも普通のことです。そのためあちこちに同じようなことを書いていますが、ここにあらためて当ブログの主旨を書いておきたいと思います。

 当ブログは「南葛八十八ヶ所」と呼ばれている八十八ヶ所霊場巡りに注目し、実際に札所をまわっています。この「南葛八十八ヶ所」ですが、実は同じ名前で二系統あります。

 ひとつは明治43年に東京弘山講が開創したものです。名称は「新四国南葛八十八ヶ所」「南葛新四国八十八ヶ所」など揺れがあり、どちらが正式ということもないようです。この霊場めぐりは大師像や大師堂の造立を行わなかったようで、札所とされているお寺には札所だった頃の名残は残っていない事が多いです。いくつかのお寺で札所番号と御詠歌、奉納した年月日(明治43〜45年くらいの)が刻まれた木製の扁額を見つけました。順路は旧南葛飾郡のうち主に江戸川区を通り、葛飾区、墨田区浦安市にも及んでいます。当ブログではこちらを「南回り」「南葛南回り」と読んでいます。

 もうひとつは大正12〜14年にかけて、宇田川万太郎氏(恵心和尚)が開創した新四国南葛八十八ヶ所です。順路は旧南葛飾郡のうち主に葛飾区を通り、江戸川区墨田区江東区、足立区の柳原(ここは昔葛飾区だった)に及んでいます。当ブログでは恵心和尚が最初に造立した大師像にちなんで「いろは大師」と呼んでいます(時々「北回り」と呼んでいるかもしれません)。

 さて、江戸川区小松川の善照寺は、南葛八十八ヶ所南回りの第一番札所です。いろは大師の第一番にも書いたんですが、あちらの一番とお寺の名前が一字違いで同じ読みなんですよね。最初見間違いかと思って頭がくらくらしました(笑)

 善寺には境内に立派な大師堂がありますが、南葛八十八ヶ所の説明は見えるところにはありませんでした。

 八十八ヶ所めぐり、二十一ヶ所めぐりは江戸時代から大正、昭和にかけて、全国に無数に作られました。その多くは札所に指定された寺をめぐるだけで、特別に大師像などの造立を行わなかったようです。南葛南回りも固有の大師像はまだ見た事がないので、作らなかったんだと思います。

 ただ、目印になるものがまったくないかというとそうでもなくて、下のイラストのような木製の扁額が残されている場合があります。

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南葛八十八ヶ所南回りの札所に残っている可能性がある御詠歌の扁額(イメージ図)。

 フォーマットは必ずしも共通ではないですが、

  • その場所の札所番号に対応した御詠歌(ごえいか)が書かれている(必ず)
  • 南回りの札所番号が書かれている(ほぼ必ず)
  • 東京弘山講という講名が入っている(ことが多い)
  • 明治40年代の奉納年月日が入っている(ことが多い)
  • ○○寺写△△寺と書かれているかもしれない(ないことも多い)。○○は本場四国の寺で、△△のほうはその扁額が奉納された寺の名前です。

 全国にある八十八ヶ所めぐりは、四国の八十八ヶ所の写し、つまりコピーです。南葛南回りの一番は、徳島県鳴門市大麻町坂東・霊山寺とみなされているわけです。そのため、奉納された御詠歌もオリジナルのお寺に捧げられた御詠歌になっていて、歌だけ読んでも何番の写しかわかるようになってます(途中で札所が移動するなどがあると一致しない場合もありそうですが)。

 ただし注意しなければいけないのは、ほぼ同じような体裁の扁額が、いろんな系統の霊場巡りで使われています。上のイラストのように、開創した講の名前が入っていればズバリ「南葛八十八ヶ所の南回りのものだ」と判断できます。

 でも、講名もなくて、霊場めぐりの名前もない場合もたまにあるので、その場所の札所番号と一致する御詠歌が書かれているかを必ず見ます。一致してれば「ああ、○○の扁額だ」と判断できるわけですが、一致しない場合は「何めぐりに属する扁額だろう?」と悩むわけです。時々、まったく未知の霊場めぐりを発見する場合もあります。

 明治40年代に弘法大師霊場を作るのが一大ブームになったそうで、とにかくあっちこっちに霊場めぐりがあります。作ったけれど巡行大師(送り大師)などの行事が諸事情で長くつづかなかったケースなんかもおそらくあって、地元でも忘れ去られてるような札所もあると思います。

 閑話休題。東小松川・善照寺の場合は、大師堂内を見られたらもしかするとこのような扁額が残っている可能性もありますが、窓越しに中を見ただけではよくわかりませんでした。とにかく、南回りにはこういう扁額があるかもしれないということをお見知り置きください。これまでに発見した例では、北小岩・真光院北小岩・正真院…などに残っていました。



 ところで、先に書いたように「南葛八十八ヶ所」は作られた年代、作った人、順路のまったく違う二系統あるわけです。わたしは葛飾区内に住んでいて、恵心和尚のいろは大師は知っていて、南葛八十八ヶ所はそれしかないと思っていました。

 ある日、東小松川あたりをぶらぶらしていて、善照寺のすぐ近くにある宝積寺で八十八番の扁額をみつけて「あら、南葛の八十八番はここなんだ」と、その時はすべての札所を知ってるわけじゃなかったので、なんとなく納得したわけです。

 しかし帰宅後にネットでリストを見ると、宝積寺は入ってない、というか順路に東小松川がないわけです。あれ、どういう事?

 それで図書館で郷土資料など調べてみたら、南葛八十八ヶ所が二系統あることがわかったわけです。わたしは散歩中に世間の人が忘れてるみたいな札所をみつけて歩くのがけっこう好きで、言ってしまえばやや札所マニアな人なんですが、南葛なんかはもう研究しつくされててみんな知ってると思ってたから、わりとノーマークだったわけです。

 恵心和尚のいろは大師は、いくつかのサイトにリストがあるので、たぶん知ってる人が多いですけど、東京弘山講の南回りは知らない人が多いんじゃないでしょうか。でも実際扁額を掲げて、札所を自認してるお寺もあるわけだし、これは札所探索マニアになりかけてる自分のためにもごっちゃにしておいてはいけないと思い、ひととおり回って見ることにしたわけです。

 いろは大師は2020年中にまわりきったのですが、南回りは家から距離があることもあり、まだほとんどまわれていません。2021年にぼちぼちやっていこうと思っています。

南葛八十八ヶ所(いろは大師)札所の地図

 以下は「いろは大師」の札所のみを地図にまとめたものです。「南回り」の札所は別の地図にまとめました。>南葛八十八ヶ所「南回り」の地図と、南回りにまつわるもののまとめ - 二系統の南葛八十八ヶ所霊場


 黒いラインは札所間の距離を見るために便宜的に引いたものです。その道を通るのが伝統とかではありませんので注意してください。また車で通ることをまったく考慮していません。

 ×印のマーカーは大師像がなかったか、敷地に入れなかったので見られなかったかのどっちかです。
 ?印のマーカーはそのあたりに札所があったはずだけど、現在は廃止されているか、みつからない場所です。

 マーカーの色分けは、大心講『御詠歌集』の道順里程(以下「順路」)に書かれている東西南北に対応しています。
青:東
赤:南
黄:西
紫:北

 いろは大師は毎月5日、10日、18日、27日の4日間ですべての札所をまわる行事をしていたそうで、東西南北はそのためのエリア分けだと思います。下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』に掲載されている分け方とは少し違う部分があるので、時代ごとに回りやすいように変化していたと思います。

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大心講『御詠歌集』の道順里程(順路)。赤い○の部分に東西南北が記されている。進む方向とは関係がない。

いろは大師:大師像がないか、札所がみつからないリスト

(2022年10月、これまでみつからなかった大師像の行方がかなり判明しましたので、この記事も大幅に書き直しました)

【いろは大師固有の大師像がなかった札所】

 固有の大師像というのは、像の下に番号の台座があり、像のデザインや造立年、番号などから、いろは大師のシリーズだとわかるものの事です。固有の大師像はほとんどは大正14年前後の数年間に作られたものですが、戦災にあったものなどは戦後に作り直されているケースもあるようです。
 作り直された大師像がある場合、番号の台座がない場合は「みつからない」と判定しています。

第04番 観音寺→焼失か?
第64番 聖天堂西光寺(現・小松川神社)→善紹寺へ遷座との情報あり(未確認)
第49番 八広・正覚寺 →新しい大師像があるが、番号の記載はない。
第56番 新光寺(真光寺)
第72番 玉ノ井稲荷(現・東清寺)
第39番 原神社内→善紹寺へ遷座との情報あり(未確認)
第36番 宝町・西光寺→台座のみ確認

 4番の観音堂はもとは西光寺の観音堂で、寺は明治2年に廃寺となり、観音堂は戦災で焼失したとのこと>葛飾区立中央図書館蔵『妙厳寺誌』
 第36番は、番号のついた台座が物置きにしまわれているのは確認しているが、像がどうなったかは問い合わせていないので不明。
 39番、64番は善紹寺に遷座されたとの情報があります(葛飾区立中央図書館蔵『新四国八十八ケ所霊場地絵地図』にある平成18年ごろの調査による)。当ブログで寺に確認をとったわけではありません。

【敷地に入れず像の存在を確認できなかった札所】

第3番 高砂阿弥陀堂
 第3番は門扉が施錠されていて堂の前までいけなかったが、お堂はあり、おそらく大師像もあると思われる。

【状況がはっきりしない札所】

下小松町、謎の番外
 場所的に 70番の福島地内の同一のように思われるが、戦前の巡拝案内では下小松町の番外は「厄除合体大師」と記載されている(合体は弘法大師の伝説にまつわるもので、秘鍵大師や鯖大師などと同じような名称)。その場合だと台座に「合体大師」の文字が刻まれていた可能性が高く、福島地内の70番とは別の像だった可能性も残る。このあたりは未だ状況がはっきりしない。



【別の寺に移動、またはその場で現存を確認できたもの】

第22番 吹上→善紹寺へ遷座
第68番 森田屋敷地内→善紹寺へ遷座
第31番 佐々木金次郎地内→青戸の民家で現存を確認
第78番 石田地内葛飾区鎌倉の大珠院にお堂ごと遷座
第66番 六阿弥陀常光寺→近くの龍光寺に遷座


善紹寺

 奥戸・善紹寺は南葛「いろは大師」のうち、一番、四十八番、番外元大師の札所です。



【札所番号】
いろは大師:第一番(板野郡大字板東村・霊山寺の写)
いろは大師:第四十八番(温泉郡久米村大字高井・西林寺の写)
いろは大師:番外:元大師(いろは大師)
#( )内は『御詠歌集』に従っています。霊山寺の所在地は、東村→坂東町大字坂東→大麻町大字坂東と変遷しており、何町なのかはっきりしなかったため字のみ書いているものと思われます。

【札所名】善紹寺(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸6-6

【御詠歌(いろは大師1)】本尊釈迦如来
りやうせんの しやかのみまへに めぐりきて よろづのつみも きへうせにけり

【御詠歌(いろは大師48)】本尊十一面観音
みだぶつの せかいをたづね ゆきたくば にしのはやしの てらへまいれよ

【御詠歌(いろは大師・元大師)】
のぼりはて 心の霧も はれぬべし 高野の山の 峰の嵐しに

なんかつに いろは大師が 自現して よろづの人を救ふ嬉しさ

【いろは大師:宇田川先達の御詠歌】
うだがわがいろは大師のいさほしわ 柱らのそこの石となりぬる

【御茶功徳御詠歌(古典)】
ありがたや お茶のくどくに みをやすめ このよのくどく のちのよのため

大日如来の御詠歌(弘法大師・作)】
阿字のこが 阿字のふるさと たちいでて またたちかへる 阿字のふるさと

【いろは大師、次の札所】
七番宝蔵院へ二丁半



 ネット情報は検索してヒットしたところから読むのが普通ですし、そこだけ読んで離脱するのも普通のことです。そのためあちこちに同じようなことを書いていますが、ここにあらためて当ブログの主旨を書いておきたいと思います。

 当ブログは「南葛八十八ヶ所」と呼ばれている八十八ヶ所霊場巡りに注目し、実際に札所をまわっています。この「南葛八十八ヶ所」ですが、実は同じ名前で二系統あります。

 ひとつは明治43年に東京弘山講が開創したものです。名称は「新四国南葛八十八ヶ所」「南葛新四国八十八ヶ所」など揺れがあり、どちらが正式ということもないようです。この霊場めぐりは大師像や大師堂の造立を行わなかったようで、札所とされているお寺には札所だった頃の名残は残っていない事が多いです。いくつかのお寺で札所番号と御詠歌、奉納した年月日(明治43〜45年くらいの)が刻まれた木製の扁額を見つけました。順路は旧南葛飾郡のうち主に江戸川区を通り、葛飾区、墨田区浦安市にも及んでいます。当ブログではこちらを「南回り」「南葛南回り」と呼んでいます。

 もうひとつは大正12〜14年にかけて、宇田川万太郎氏(恵心和尚)が開創した新四国南葛八十八ヶ所です。宇田川氏はもともと農夫だったそうですが、庭木の手入れ中に転落して枝で目をつき、何ヶ月も腫れ上がって膿を排出するような大けがをしました。しかし弘法大師におすがりすることであとかたもなく快癒し、その奇跡に感じて自宅に大師堂を建立し「いろは大師」と名付けたのが起源だそうです。その後旧南葛飾郡の51ヶ村に弘法大師霊場を開こうと発願し、札所は大正12年から段階的に開かれ、14年に八十八ヶ所の霊場巡りが完成しました。その後万太郎氏は出家して恵心和尚になり、大心講を作りました。後に講は息子の宇田川善紹氏にひきつがれ、昭和61年ごろまでは巡行大師を行っていたということです。順路は旧南葛飾郡のうち主に葛飾区を通り、江戸川区墨田区江東区、足立区の柳原(ここは昔葛飾区だった)に及んでいます。当ブログでは恵心和尚が最初に造立した大師像にちなんで「いろは大師」と呼んでいます(時々「北回り」と呼んでいるかもしれません)。

 これらの由来は大心講発行の昭和54年版『御詠歌集』、下町タイムス社平成元年発行の『江戸・東京札所事典』に書かれています。資料についてはいろは大師の由来などもご覧ください。

 さて、善紹寺ですが、これは南葛いろは大師の第一番札所であり、第四十八番札所であり、開創者の恵心和尚が最初に造立したいろは大師もここにあります。

善紹寺門前の大師堂
南葛八十八ヶ所第一番と書かれた表札
お堂の前にある足形の踏み石
南葛八十八ヶ所いろは大師第一番大師像
一番大師像の台座、向かって右面

 南葛いろは大師の第一番は、善紹寺の門前にあります。お堂は通りにむかって建てられているので、いつでも、誰でも、お参りすることができます。堂内には第一番の台座に安置された大師像があります。また、木製の大師像が二体、仏像と並んで厨子におさめられたものがありました。

 お堂の奥の壁には小さな扉があり、中は拝見していませんが、おそらく四国一番札所のご本尊様である釈迦如来の像を納めたものだと思われます。大心講の『御詠歌集』によれば、霊場開創者の恵心和尚は四国八十八ヶ所を巡った際に、八十八番大窪寺の僧正よりご本尊様を刻むために老霊木をたまわり、百余体の霊像を作ったとされています。各地の札所に木製の小さな仏像が納められているのを見ました。誰かに確認したわけではありませんが、おそらく、この霊木から刻まれたものではないかと思います(違ったらごめんなさい)。

 お堂の前に足の形をした敷き石があります。恵心和尚は四国から霊場の砂を持ち帰り、各札所にまいたということなので、おそらくこの踏み石の上に立って大師堂を礼拝することで、四国をめぐったのと同じ功徳があるという趣向なのだと思います。

 台座の脇面をスマホでどうにか写してみたのですが、向かって右面には納人のみなさんのお名前があるだけで造立年はありませんでした。左面は堂内が暗いため文字が読めるほどには写らないのですが、何か刻まれているようではあります。


 第四十八番と元大師の開山堂は善紹寺境内にあります。

善紹寺境内の大師堂。右の小さい方が四十八番、大きい方が開山堂。
南葛八十八ヶ所いろは大師第四十八番大師像
四十八番のお堂にかかげられた扁額。文字は消えてしまっている。

 第四十八番のお堂には番号の台座に安置された大師像と、その脇にはなぜか不動明王と思われる仏様が厨子に納められて置かれています。お堂の奥の壁には小さな扉があり、おそらく四国四十八番寺のご本尊様である十一面観音を納めたものだと思われます(中は拝見していないので想像です)。

 お堂の軒下には木製の扁額がかかげられていますが文字は消えてしまっています。おそらくは「第四十八番西林寺の写 みだぶつの せかいをたづね…(御詠歌)」と書かれていたものだと思います。いろは大師の扁額はだいたい消えてしまっているのが残念です。

善紹寺開山堂(元大師が納められている)
開山堂内(ガラス越しに撮影させていただきました)

 四十八番のお堂のとなりには開山堂があります。こちらには恵心和尚が最初に造立したいろは大師が納められています。いろは大師像は厨子におさめられて見る事はできないのですが、台座に「いろは大師」と刻まれているのが見えます。

 またこちらには番号のない石の大師像が二体納められています。これはいずれかの廃止された札所から引き取ったものなのか、それとも最初からここに納められていたのか、お寺の方に聞いてみないとわかりません。
 
 善紹寺については昭和の中ごろに発行された『葛飾区史』に「真言宗豊山派に属し、大心山と号する。大正年間の創立で本尊に弘法大師像を安置する。寺宝として唐白担立像及び室町末期と推定される五具足等がある。当寺は新しく設定のため堂宇の建設が計画予定されている」とだけあります。

 また近年葛飾区によって編纂されたWEB板の『葛飾区史』によれば「南葛八十八箇所は、大正12(1923)年、現在の奥戸、善紹寺の住職により始められた「いろは大師」をもとに大正14(1925)年、八十八ヶ所の霊場が整備された」とあります。

 それとこれは完全にネット情報ですが、恵心和尚の息子さんである宇田川善紹氏が自宅を寺としたもの、と書いている方もみつけました。いずれにせよ、恵心和尚ご自身か、息子さんによっ大正年間に開かれたお寺ということです。

 いろは大師はこのお寺を一番として、同じ奥戸の明源寺の八十八番でひとめぐりします。

いろは大師の札所を地図にまとめたもの(スクリーンショット

 地図はわたしが札所をまわるためにメモとして作ったものです。詳しくはこちらからどうぞ。
 
 
 ところで、恵心和尚は明治43年開創の南葛八十八ヶ所(南回り)を知らなかったのでしょうか? それとも知っていて、あえて同じ名前で霊場を作ったのでしょうか?

 わたしは、知ってたんじゃないかな、と思うんです。わたしがちょっとお寺を回っただけでも、南回りの札所に納められた扁額をいくつかみつけました。令和の現在ですら残っているので、大正時代にならもっと多くのお寺にあったかもしれないです。

 それにお寺の名前。南回りの一番は江戸川区小松川の「善照寺」だそうで…一文字違いで同じ読みですよね?!

 南葛というのは南葛飾郡の略で、今の葛飾区全域、江戸川区の大部分、墨田区の一部、江東区の一部、足立区の柳原が含まれます。にもかかわらず、南回りの順路はほとんど南葛飾郡の南部(今の江戸川区)ばっかりを通っていて、北部(今の葛飾区)をちょっぴりしか通らないんです。そこにちょっと、カチンと来るものがあって、あえて同じ名前で北部を主に通る霊場巡りを作ったんじゃないかと想像しています。もちろんこれは、あくまで想像です(笑)

 わたしは葛飾区在住で、区内のお寺で恵心和尚の南葛八十八ヶ所のお堂を見ており、南葛といったらそれしかないと思ってました。

 ところがある日、江戸川区内をぶらぶら歩いていたら、思わぬところに「南葛八十八ヶ所」と刻まれた扁額を見つけて、え、こんなところにまで札所があるの? と驚き、ネットで南葛の札所の一覧を見ると、そんなお寺は入ってない。そりゃあそうです。わたしが見たのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所のリストだったのです。

 それから地元の図書館へ行き、前に眺めたことがある下町タイムス社の『江戸・東京札所事典』を見たら、南葛八十八ヶ所が二系統あるのに気づきました。

 ああ、これは、両方回ってみなきゃ。ネットで主に言われてるのは恵心和尚の南葛八十八ヶ所だけど、そうでない系統の南葛の札所を自認しているお寺も実際にあるわけだから、ごっちゃにしていてはいけないなと思い、歩き始めたのがこのブログの始まりです。

 家から近い葛飾区内からはじめたので、2020年末現在、まだ南回りの札所は数えるほどしかまわれていません。来年もぼちぼち続けていこうと思います。

2022年追記

 コメント欄やメールでいただいた情報を追記します。

この三件は「善紹寺に遷座されている」とのことなので、善紹寺開山堂内にある2体の像がこれらのうちのどれかなのかもしれませんが、いずれも、どのような調査でそうおっしゃってるのかはわかりませんし、わたし(当ブログ筆者)は善紹寺さんに確認をとるなどの作業はしていません。#22番は確認できました。10月の追記を読み進めてください。↓

2022年10月追記

 またお参りに行くチャンスがありましたので確認してきました。結論からいうと番号の台座が 3基みつかったのですが、あったのは第22番吹上第68番森田屋敷、それから番号が読めなかったものが1基あります。

奥戸・善紹寺の観音堂脇に積まれた 3基の台座

 写真に写っているお堂は観音堂だったと思います(大師堂でないことは確かです)。

積み上げられた台座、上から「第二十二番」「第六十八番」「第……」

 台座の番号は、22番、68番、一番下は土に埋もれてしまい、草も生えているので読めませんでした。少し掘り出せば確認できるかもしれませんが、さすがにお寺さんに許可をもらわないとまずいかなと思ってやめました。大師像そのものは、おそらく開山堂内にある台座のない像のどれかだと思います。

 というわけで、第22番吹上、第68番森田屋敷については、善紹寺に遷座されたことが確認できています。

2023年12月13日追記

 上記の土に埋もれた台座について、かつしかあつめというサイトを作ってらっしゃる方から情報をいただきました。現在は土が取り除かれて番号が見える状態になっているそうで、一番下に隠れているのは39番だそうです。これはかつて 原神社内 にあったとされるものと一致します。近いうちに写真を撮り直しに行こうと思います。

2022年11月13日追記

 以前通り掛かりに撮影した写真を見ていたら、まだブログに貼っていないものをみつけたので追記しておきます。

寺門入ってすぐ左手にある石碑

相馬霊場四十八番法写
यु 弘法大師
 大正九歳三月成
   ■■■書

(下段に寄進者か世話人の方々の名前が刻まれている)

 ■は手持ちの写真では不明瞭で読めなかった部分です。
 この石碑は、寺門を入ってすぐ左手にあるものです。くずし字で「相馬霊場四十八番法写」とあるので、いろは大師とは関係ないのかな、とも思っていたのですが、『御詠歌集』にある開創縁起によれば、恵心和尚が怪我の快癒に感激して

報謝の涙止め難く遂に北相馬新四国霊場を巡拝し一大法悦を感じ自宅の構内に一小堂を建立し、いろは大師と称し、大正八年十一月二十一日入仏供養を修業せり、今の元大師是れなり

とあるので、開山堂におさめられている元大師にまつわる石碑のようですね。相馬霊場(あるいは北相馬霊場)は、取手市我孫子市柏市にまたがる八十八ヶ所霊場のことだと思われます。なぜ四十八番の写しなのかはわかりません。相馬の四十八番は小文間村安養寺ですが、寺そのものは廃寺で、大師堂のみ残っているそうです。

宝蔵院

 宝蔵院は南葛「いろは大師」の七番であり、南葛「南回り」の六十番です。「四箇領」の二十四番でもあります。



【札所番号】
いろは大師:第七番(板野郡御所村大字高尾・十楽寺の写)

南回り:第六十番

四箇領:第二十四番

【札所名】宝蔵院(真言宗豊山派

【所在地】

旧地名 葛飾奥戸新町
現在の地名 葛飾奥戸8-5-19

【御詠歌(いろは大師7)】本尊阿弥陀如来
にんげんの 八くをはやく はなれなば いたらんかたは くぼんぢうらく

【御詠歌(南回り60)】

【いろは大師、次の札所】
九番元熊野社へ一丁半

【南回り、次の札所】
六十一番、細田・専念寺



 

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宝蔵院の大師堂
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南葛いろは大師第七番大師像

 宝蔵院は南葛八十八ヶ所いろは大師の七番であり、同名の霊場めぐりである南回りの六十番であり、四箇領の二十四番でもあります。境内の大師堂には像が二体ありますが、中央に安置されているのがいろは大師のものです。閼伽棚が前にあって台座が写真には写っていませんが、上から見るとちゃんと「第七番」と刻まれていました。

 向かって左奥の像はどなたの像なのかちょっとわかりません。弘法大師の座像ならば、右手に五鈷杵(ごこしょ)という法具を持って、左手で数珠を握っている事が多いです。絶対じゃないかもしれないですけど。

 南回りの札所だった名残はありませんでしたが、四箇領は門前に標石がありました。

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四箇領の標石(二基)
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右側の標石の脇面

 右の背の高い方も正面は「新四国八十八ヶ所」としか書かれていないので、これだけだと何の標石なのかわからないんですが、脇面を見ると「西新井組二十四番土州東寺写/宝蔵院」の文字が見えます。西新井組というのは現在四箇領と呼ばれている霊場巡りのことです。四箇領は別名で西新井組中川通と呼ばれてるそうで、古い標石には「西新井組」と書かれてることがけっこうあるみたいですね(南葛関連で見て回るまでわたしも知らなかったんですけど)。

 白くて背が低いほうは、わたしは八十八石と呼んでます。八十八とだけ刻まれているものは、たぶん昔は順路上の路辺にあったものだと思います。都内だと道路を広げる時などに撤去されて、こうしてお寺の門前に置かれている事が多いですが、三郷市内にはまだ路辺にいくつも残っていたりします。特別に四箇領とは書かれていないのですが、だいたい四箇領の札所へ向かう道の途中にあります。八十八石については、わたしの別のブログの記事をどうぞ。
www.chinjuh.mydns.jp
 
 
 
 宝蔵院は境内が広くて、薬師堂のまわりなど田舎道みたいになっていて楽しかったです。

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やくしみち入り口
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林の中に摩羅様が生えてた…!
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薬師堂の前で「こっちだよ」と指さしてる小僧さんがかわいい。
弘法大師 空海 密教